Chapter 211 陰という映像

結局の処、わたしたちの一生というものは止めどもない苦楽の繰り返しであるわけですが、繰り返しである故に生きてゆけるのです。
苦労ばかりの連続であれば生きてゆけない。
楽ばかりの連続であってもやはり生きてゆけないのです。
自殺するのは、苦労ばかりの連続だと錯覚するか、楽ばかりの連続だと錯覚するから自殺する羽目に陥ってしまうのであって、食べることに苦労して餓死することがあっても、自殺する者はおりません。
餓死する人にとって、自殺ほど愚かなものはないからでしょう。
食べるという生きる上での本質的なことで、気持ちの問題である苦労など本質的にあり得ないことなのです。
楽し過ぎて、その反動が大きくて自殺する人が、世の中で一番多いのです。
苦楽が交互にやってくるから人生がエキサイティングなものになるのであって、人生を楽しみ続けることは、人生四苦八苦の連続であるとも言えることを忘れないで欲しいのです。
ここが、とても大事なところです。
二元論的に生きるとは、幸せと不幸せ、善と悪、金持ちと貧乏・・・の両方を受け止めて生きることなのに、片方だけに執着して生きるから四苦八苦するわけです。
それは、二元の要因をつくったのはわたしたち人間だからであります。
他の生き物には、幸せや不幸せ、善と悪、金持ちと貧乏の観念など持ち合わせてはいないのです。
わたしたち人間だけが、エデンの園を追放されてエデンの東にあるノドという町で住むことになったために、幸せを渇望し、不幸せを忌み嫌うようになったのです。
宇宙を貫く本質を基点にした二元論であれば、それはすべてに共通する真理であり、実在するものとその陰の関係でありますから、実在する方を注視しておればいいのです。
運動と静止。
光と暗闇。
音(喧騒)と沈黙。
実在するものは、静止、暗闇、沈黙であります。
わたしたちは静止の世界にいることが本当であって、運動の世界にいると思っているのは、その陰(映像)の部分に視線が行っているだけなのです。
暗闇の世界が、わたしたちの本当の世界であって、光という蜃気楼が映す世界は、本当の世界の陰(映像)なのです。
沈黙の世界が、わたしたちの本当の世界であって、音(喧騒)という雑音の世界は、本当の世界の陰(映像音響)なのです。
電気がなかった100年前までは、わたしたちは暗闇の世界を基点で生きてきました。
暗闇があって、そこに蝋燭の火を点けると光が入り、暗闇が消える。
暗闇の夜があって、そこに太陽の陽が入り、暗闇が消える。
しかし暗闇は何処にも行かないで、常にここに在るのです。
夜空に見える月や星が、太陽が出た昼間に見えなくなりますが、何処かに消え去って行ったわけではなく、常にここに在るのです。
ただ太陽の光で見えなくなっただけのことです。
実在するものを基点にして生きると、二元論的生き方から脱出できます。
「苦楽が交互にやってくるから人生がエキサイティングなものになるのです」と申しました。
苦楽は二元要因ですが、エキサイティングは運動と静止という実在に係る絶対一元要因です。
苦楽に執着すると四苦八苦の人生になるが、エキサイティングな人生は四苦八苦に無縁な人生になるのです。
それは、絶対一元要因である静止の陰(映像)である運動に係るものだからです。
静止の暗闇と沈黙という実在の世界と、運動の光と音(喧騒)という陰(映像)の世界。
つまり宇宙すべてに当てはまる真理に沿って生きること。
幸せと不幸せ、善と悪、金持ちと貧乏・・・といったものは、人間社会だけに存在する概念であって、静止と運動、暗闇と光、沈黙と音(喧騒)といった宇宙すべてに当てはまる真理とは、およそ掛け離れたものであり、そんな概念に執着して生きているわたしたち人間である限り、ノドの町から脱出することは無理でしょう。