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Chapter 212 所謂・現実の世界 陰という映像を実在するものと勘違いして生きているわたしたちですが、そのことに気がつかないのは、本当の自分である、「わたし」の陰である「私」を実在する自分だと思っているからなのです。 映画を製作する撮影現場には、登場する人物、景色がみんな揃っていなければなりません。 陰という映像を観ることで、恰も同じ撮影現場に、自分もいると思うのですが、わたしたちが観ているのは、撮影現場ではなくて撮影した結果の映像であるのです。 しかも、映画を観る鑑賞者である、「わたし」が、ついその映画に登場している鑑賞物と錯覚してしまう−自己同化する−結果、鑑賞物である、「私」が誕生しているだけで、撮影現場に足を踏み入れたことなどない、「私」ですから、「私」の像などは、映像には映っていないのです。 夢の中で、自分の像を決して観ることができないのと同じです。 夢とは、蓄積した記憶−記憶もまた映像に過ぎない−を合成・再生した、コンピュータグラフィックスのような映像であって、ロケ現場で撮影した映像ではありません。 それがまさに3階と5階から見える背景画面であるわけです。 そして4階から見える背景画面は、その前にある実舞台というロケ現場で撮影した背景画面であるから実舞台と連動して、更に4階の座席に座っている、演出者兼演技者兼鑑賞者である、「わたし」が一人三役をこなしている。 その4階にある座席、実舞台、背景画面が一体となっているのが、『今、ここ』という世界に外なりません。 一生の中で、正夢(まさゆめ)−ここでいう正夢は、負夢に対する正夢ではなく、一般に言われている、現実と連動している正夢(まさゆめ)のことです−を何度か観る機会があるのは、4階の座席に座って、実舞台に連動している背景画面を観たことに外なりません。 3階や5階にいると、座席に座っているのは、常に、本当の自分である、「わたし」ですが、鑑賞者としての自分さえ忘れてしまっている、「わたし」つまり「私」しか自覚できないでいるのです。 「わたし」がいれば、「私」はいない。 「私」がいれば、「わたし」はいない。 「わたし」と「私」は実体と陰の関係であるから、同体で在り得ない。 従って、本当の自分である、「わたし」は常に実在しているのですから、「私」は実在しない、陰であり、映像に過ぎないわけで、陰であり、映像である、「私」が思っている世界が、実在する、つまり現実の世界で在り得る筈がない。 それが、わたしたちが普段生きている、所謂現実の世界であるのです。 |