Chapter 213 「人生号」から降り立つ

結局の処、わたしたちが普段生きている世界には二つの世界があって、映像である所謂現実の世界と、本当の現実の世界がある。
所謂現実の世界と、本当の現実の世界とは、表裏一体に重なり合っていて、わたしたち人間に譬えれば、現実の世界が身体で、所謂現実の世界が身体の陰であると考えればいいわけです。
陰は光が無ければ映らないように、現れたり、消えたりするのですから、まさしく映像そのものであると言えるでしょう。
それでは、所謂現実の世界という陰はどうして現れるのかというと、時の流れ、即ち時間が陰を映す光の役割を果たしているのです。
時間が過去から未来へと流れていく、その時折−厳密には時を刻むのですから時刻と言った方が適切ですが、普段使用する時刻と混同する恐れがあるから時折としました−での場面−厳密には四次元時空間の断面としての三次元空間−が、所謂現実の世界という陰であるのです。
わたしたちは、この世に生れ落ちた時点(時刻)から、この世を去る時点(時刻)まで、時の流れに沿って生きていきます。
それは、「この世の入り口駅」と「この世の出口駅」との間を走る列車の如きもので、線路は片側通行一本しかありません。
わたしたちの一生とは、この路線全体を指すわけで、その間にあるいろいろな場所を通り過ぎる際に列車の中から見える景色が所謂現実の世界であり、一時停車して降り立ったところが本当の現実の世界であると言えるでしょう。
わたしたちが普段現実の世界だと思っているのは、「人生号」という列車の中から観る、通り過ぎていく景色(場面)であるのに対し、「人生号」を停車させて降り立った場所が実在の世界であるのです。
たとえば、列車の中から金木犀の木が見えたとしましょう。
金木犀の花が咲く季節だから、橙黄いろの香りが匂うだろうと思います。
これが所謂現実の世界であって、金木犀の花が見えたわけでもない、香りが匂ったわけでもない。
飽くまで、記憶を基にした知性レベルの想像に過ぎない。
一方、列車から降り立って、金木犀の傍にいき、花を見て、触って、匂ってみると、金木犀と自分とが一体になっていることに気づきます。
これが、本当の現実の世界であるのです。
五感に直接感じるためには、実際に見る、聞く、匂う、味わう、触ることをしなければなりません。
通り過ぎる金木犀や、これからやって来るであろう金木犀を見て、聞いて、匂って、味わって、触ることはできません。
わたしたちの、所謂現実の世界とは、結局の処、想像の世界でしかないのです。
それは、「人生号」という列車から、通り過ぎていく景色を観て想像しているだけに過ぎないのであって、実際に「人生号」という列車を降り立って経験してみない限り、本当の現実の世界を体験することはできないのです。
「人生号」という自分の一生である列車から降り立ってみることが、『今、ここ』に立ってみることであるのに、「人生号」から降りることを怖がって、列車の中から観ているのが、普段のわたしたちであるのです。
『今、ここ』にいることが、難しいのは、難しいのではなく怖いだけのことなのです。
奇麗な、よい匂いのする、風によって花の音を聞き、柔らかい肌を触るには、勇気を奮って、「人生号」から降り立たないと、体験することはできません。
所謂現実の世界から、本当の現実の世界に立つことができるためには、「人生号」という自分の列車から降り立つことです。
その時、「人生号」という列車は、いつまででも、わたしたちを待っていてくれます。
なぜなら、人生号から降り立つということは、時の刻みを停止することに外ならないからです。