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Chapter 214 『今、ここ』とは無数の駅 自己の一生は、「人生号」という列車で、「この世の入り口駅」から「この世の出口駅」までの独り旅であるのですが、その間にある無数の駅に停車する鈍行列車であることを自覚することが肝要です。 四次元時空間の世界−たとえば新田論の一生−を、時間というナイフで切った断面が三次元空間の世界で、2003年9月27日午前4時10分という時で刻むと、このChapter214をベッドの上で書いている、『今、ここ』の自分が出現する。 しかし、あと3時間20分経過した午前7時30分という時で刻むと、平成セミナーのみなさんと四国・剣山へ行くバスの集合地である大阪駅に降り立っている自分が出現する筈であります。 そうしますと、わたしが、『今、ここ』でこのChapter214を書くことをしないで、つまり駅に降り立つことをしないで、ベッドの上で3時間20分後の大阪駅のことを想像している−つまり未来に想いを馳せている−と、このChapter214という花を体験すること−見て、聞いて、匂って、味わって、触る−が永遠にできなくなるのです。 2003年9月27日午前4時10分という、『今、ここ』で、わたしができることは、このChapter214を書くことしか無いわけで、つまり駅に降り立つことであって、列車の中から見える大阪駅という景色を眺めれば、「人生号」は停車せずに走ってしまうのです。 実際の列車は、断続的に存在する各駅に停車するのですが、一生である「人生号」では、各駅が連続的に存在するだけに、理解することが困難になる。 過去、現在、未来は時間という水平的な時の流れの一点ですが、『今、ここ』は、その時の流れの中には存在し得ない別世界−垂直的な時である虚時間−だけに、過去、現在、未来の中で生きている普段のわたしたちが理解するのが極めて困難になるわけです。 しかし、いくら理解困難であっても、わたしたちが現に存在しているのは、水平的な時の流れである、過去から未来への通過点である現在ではなくて、垂直的な時である、『今、ここ』でしか無いのです。 水平的な時の流れの中での現在は、過去と連続的に繋がり、未来とも連続的に繋がっているわけですから、現在は過去の一部であり、未来の一部でもあるのです。 わたしたちが、過去を思い患い、未来を心配して生きているのは、現在が過去の一部であり、未来の一部であるからに外ならないからで、それは水平的な時の流れの中で生きているからで、本当に生きていることにはならない。 人間以外の生き物はすべて、垂直的な時である、『今、ここ』に生きているから、彼らには時間の概念がありません。 人間だけが、過去、現在、未来という水平的な時の流れを勝手につくった結果、時間という概念を生み、勝手に苦しんでおるわけです。 走る「人生号」の窓から観る景色はすべて過去、現在、未来という、水平的な時の流れの中での場面であり、停車して降り立った駅で体験する景色は、垂直的な時の場面である、『今、ここ』なのです。 知るということは、走る「人生号」という列車の中から景色を観るだけのことで、体験するということは、「人生号」を停車させて、『今、ここ』という無数の駅に降り立つことである。 この違いを理解することです。 概念の中で生きるのではなく、体験(行動)の中で生きることです。 |