Chapter 220 夢から醒めないわたしたち

悟りに到達するのは生身の人間であるわたしたちには不可能であると、一方でお話しながら、また他方では、悟りは地球に存在しているものすべてにとっての基本要件であるともお話しました。
唯物主義色の強い方には、その都度頭をかしげられて、「どうも新田論の言っておることは矛盾に満ちておる!」とお叱りを受けているようです。
唯物的(Material)に対して、唯心的(Mental)があると思いしや、人間には心など無い、従って唯心的(Mental)なものなどもともと存在などしない、あるのは唯物的(Material)に対して、非唯物的(Immaterial)であり、それは既知(Known)に対して未知(Unknown)と言い換えてもよいなどと、頭が変になりそうなことばかり言っておると内心思われているのではないでしょうか。
更に、宇宙がどうのこうの、アインシュタインがどうのこうの、一元論・二元論・三元論などと小難しいことを随所に織り混ぜて、訳のわからない話をカモフラージュして、自分たちを混乱させているのではないかと大多数の方々が疑問に思っておられることでしょう。
では、みなさんに訊ねてみたいのです。
みなさんは、どれだけのことを知っているのでしょうか。
みなさんは、知っていること(既知のこと)と知らないこと(未知のこと)をはっきりと区分けできているのでしょうか。
その上で、理屈に合う、合わないと演繹的な(Deductive)考え方をされているのでしょうか。
そうではないでしょう。
殆どの方々は、日々を何も考えずに、ただ帰納的な(Inductive)発想を無意識にされて生きておられるように思えてなりません。
「自分の経験上でこんなことがあった。だから多分世の中のことはすべてこうであろう」
これが帰納的な(Inductive)考え方です。
「自分の経験ではこうであったが、あの人の話ではどうもそうではなく逆のようだ。そうすると自分の経験も事実のひとつだが、まったく正反対のあの人の話も事実のひとつであるようだ」
これが演繹的な(Deductive)考え方です。
こういう話をすると、演繹的が正しくて、帰納的が間違いだと、すぐに結論を出す人が多いようです。
演繹的な考え方が時にはよい場合もあり、帰納的な考え方が時にはよい場合もある、即ち、両方共の考え方が存在するわけです。
ここのところをしっかりと理解しない限り、これまでお話してきたことは、矛盾に満ちたものと映るでしょう。
こんな逸話があります。
臨済宗の開祖である唐の臨済義玄のところにひとりの弟子が入門して、師の臨済に訊ねた。
"わたしは涅槃(天国)を求めて、俗世を捨ててきました。それなのにいっこうに悟りを開くことができません。何故でしょうか?"
師の臨済が応えました。
"お前は、俗世を捨てた。では今度は悟りを捨てることだ。そうしないと、何も起こらないよ!"
最初、この弟子は臨済の頭がおかしいと思ったそうです。
更に臨済は言いました。
"お前が悟りと言っておるものは、俗世の対極にあるものに外ならない。お前が考える悟りというものは俗世の世界に存在しているもので、ただ俗世を否定している側に過ぎない。従って、悟りも捨てない限り、俗世を捨てることは不可能だよ!"
この話を聞いた弟子は悟ったのです。
わたしたちは幸福ばかりを追いかけて、不幸を忌み嫌って生きています。
わたしたちは愛ばかりを考えて、憎しみを避けて生きています。
わたしたちは金持ちばかりを夢観て、貧乏を憎んで生きています。
しかし、よく考えてみれば、不幸の無い幸福なんて在り得ない、憎しみの無い愛なんて在り得ない、貧乏のいない金持ちなんて在り得ないのです。
幸福を追いかければ、幸福を得ることはできても不幸も必ずやってくるのです。
人を愛すれば、必ず憎しみも湧いてくるのです。
金持ちになれば、必ず貧乏にもなるのです。
幸福と不幸。
愛と憎しみ。
金持ちと貧乏。
これらふたつを二元論と言って、本来表裏一体なのであって、表と裏を別々にすることはできません。
不幸を避けるなら幸福も避ける覚悟をしなければならない。
憎しみを避けるなら愛さないこと。
貧乏になりたくなければ、金持ちにならないこと。
両方を包含するということは、両方を否定する(超える)こと。
「無」とは「空(そら)」すべてあり、無限とはすべてである。
これが三元論の考え方であって、二元論的考え方の人からみれば矛盾に満ちていることになるのですが、結局の処は二元論的考え方のほうに矛盾があることに気づかないだけなのです。
わたしたちの生きている世界が二元論的に成立していることが、こういった考え方に陥りやすい原因なのです。
決して小難しいことではなく、実に簡単なことだが気づけない。
頑迷な人ほどこの落し穴に陥りやすいようです。
やはり、先ず自分を否定して他人を見てみることから始めるべきでしょう。
ところが、この世はますます自分さえと考える風潮が蔓延しているようです。
拝金主義化したわたしたちの世界を先ず否定して掛からなければなりませんが、残念ながら殆どの人達が洗脳されてしまって、自分が今何をしているのかもわからない催眠状態であるのです。
まさに寝ても醒めても夢心地であるのです。