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Chapter 222 酒池肉林(ソドミー)な人間 一億総神経衰弱に陥ったわたしたち日本人ですが、自覚症状がまるでないのは苦痛感覚が無いからだと考えられます。 50年前の敗戦では、原爆を投下され、殆どの都市が焦土と化し、飢えの生活を強いられたのですから、"これではいけない、何とかしなければ"と自覚するのは当然な状況だったわけです。 しかし、現代のわたしたちは、まさに豊饒の生活に浸り切っているのですから、"これではいけない、何とかしなければ"という心境になる方が難しいわけで、それでは一体何処が大変なのでしょうか。 わたしたちは確かに豊かな生活をしています。 しかし、精神的には決して豊かではないと思っている人が多いのではないでしょうか。 それは人間が本質的に喜びを感じるのが、単に物質的な豊かさだけでは無いことを示しているからに外ならないからでしょう。 バブルに浮かれていた頃のことを思い出してみましょう。 その姿はまさに酒池肉林に溺れた様相で、その後バブルが弾けた時、わたしたちの日本は、聖書に書かれたソドムという町さながらで、ソドムの町を離れた人が振り返ったが最後、石になってしまう話にまるでそっくりなわけです。 一億総神経衰弱とは、未だにバブルというソドムの町に憧れて振り返ってしまい石になった人間そのものであるのです。 つまり、わたしたちは人間の姿をした石であるのです。 豊かな生活をしていても人間でなければ喜びは感じません。 石がいくら奇麗に化粧をし、着飾っても、所詮石には変りありません。 一方、敗戦後の日本人は貧しかったけれど、石ではなく人間であったのです。 だから些細なことでも、子供のように喜ぶことができたのです。 この違いは何かと申しますと、退屈するということが人間最大の不幸の原因であるからです。 石になった人間の一生はまさに退屈の人生であるから、いくら豊かな生活をしても満たされないものを感じ、目に見えない不幸感覚、即ち不安、心配に苛まれるのです。 他の生き物や子供は退屈を知りません。 毎日同じことを繰り返していても退屈を感じないのです。 それは五感、特に目で感じるものが、一見同じように見えても常に新しいものに見えるからです。 わたしたち退屈している大人であっても近い将来に些細なことでも楽しい出来事が待っているとウキウキして、その出来事が過ぎ去るまでの片時を幸せな気持ちに浸ることができます。 子供たちや他の生き物は、日々そういう気持ちで生きているから退屈しないのです。 近い将来待ってくれている楽しい出来事。 近い将来ではなくて、今まさに楽しい出来事はいくらでもまわりに在るのです。 親が子供にお話をしてやると、子供は何回もお話をしてくれとねだります。 親は飽きるだろうと思うのですが、子供は同じ話でも決して飽きません。 子供にとっては同じ話ではなくて、繰り返す度に新しい発見ができるから新鮮なのです。 実は、子供の感じ方の方が敏感であって、わたしたち大人の感じ方が鈍感であるだけのことです。 日々の生活を同じ繰り返しと感じるのは、日々川を流れている水が同じ水だと思っているからで、実は同じ水など絶対に無いのです。 水の形はしているけれど、同じものなど無く、日々新しい水がやって来ていることが子供たちには見えているのです。 小説を一度読むと、しばらくは読む気になりませんが、何年か経って読み直すとまた新鮮な発見をします。 それは小説の内容で、以前には発見できなかったことが新しくできたからで、発見するわたしたちの側の問題であったことに気づく筈です。 わたしたち人間は大人になればなるほど、五感が鈍ってくる。 人間ではなく石だと申しましたのは、まさに五感が鈍りきった状態を言うのです。 現代人のわたしたちは知らず知らずの中に、感度の鈍り切った人間になってしまったのです。 そういう人間が、いくら物質的に豊かになっても、何か満たされないと思うのは当たり前で、まだそう思うだけでも救いはあるが、満たされない感覚も麻痺してしまった人間が陥るのが神経衰弱であるのです。 感度を取り戻すには、どうしたらいいのか。 やはり苦痛を味わうしか方法は無いのでしょうか、それともひとりひとりが、"みんなで渡れば怖くない"考え方を払拭することは、できないのでしょうか。 この世で生きているのは、自分独りだけである。「夢の中の眠り」のキーワードのひとつです。 自分独りしかいない世界なら、"みんな"はいません。 本当の個人主義とは、自分独りだけの世界に生きていることの認識に外なりません。 |