Chapter 230 『今、ここ』とは一瞥の経験

『今、ここ』という世界は、ふたつの世界のちょうど真ん中に存在する世界なのですが、この世界に止まるのが非常に難しい。
振り子が一方の端から他方の端へと振れ続ける、その途中に真下の点を通過する。
この真下の点が、『今、ここ』であるのです。
3階という自分独りだけの為の劇場である、目が醒めた所謂現実の世界と、5階という同じく自分独りだけの為の劇場である、眠っているときの世界を毎日往復している、その途中に4階という劇場があるのに通過してしまう。
この4階という劇場が、『今、ここ』であるのです。
目が醒めているときの顕在意識の世界と、眠っているときの無意識の世界。
夢を観ている顕在意識−潜在意識も顕在意識のひとつの状態と考えられる−の世界と、夢を観ていない無意識の世界。
つまり顕在意識の世界が振り子が振れる一方の端で、無意識の世界が他方の端であり、その両端を往復運動している振り子が、普段のわたしたちであると言えるでしょう。
従って、わたしたち振り子は、しょっちゅう真下という、『今、ここ』を通過しているのですが、止まらないで通り過ぎてしまう。
ここに、難しさがあるのです。
今までに、執拗に申してきました、運動の光と音(喧騒)の世界と、静止の暗闇と沈黙の世界。
運動の世界にいるから、ふたつの世界が現れる。それが振り子の両端という形態で象徴されているわけです。
静止の世界にいると、ふたつの世界が消える。それが振り子が止まる真下の位置という形態で象徴されているわけです。
振り子現象は、運動の世界と静止の世界は、まったく別世界のものではなく、位相−位置の違いによってその姿が変化する様子−の違いに過ぎないことを表しているのです。
運動の世界−普段わたしたちが生きていると思っている世界−と静止の世界がまったく離れた別世界であれば、『今、ここ』を体験することは、殆ど不可能だと言えるでしょうが、位相の違いであれば、決して不可能ではありません。
常に、その一瞥を経験しているのですが、一瞥の一瞥たる所以は、止まっていない点に最大の問題があることを、わたしたちは完全に理解しなければなりません。
お釈迦さんが、悟りとは何か素晴らしいことを達成するのではなくて、いつも経験していたこと−一瞥によって経験をしていたこと−の再発見(認識)に過ぎなかったと、言われている意味がここにあるのです。
認識して生きているか、認識しないで生きているか。
運動の世界だけに生きていると、認識しないで生きていることになり、静止の世界をも生きていると、認識して生きていることになると言ってもいいでしょう。
これは生死の問題に当てはめることができます。
生は運動の世界であり、死は静止の世界であるのです。
わたしたちが錯覚しているのは、生の世界と死の世界を、別世界だと思っていることです。
生の世界のあとに死の世界がやって来ると思って、生の世界だけを生きている。
生の世界の途中で、死の世界をしょっちゅう経験していることを認識していない普段のわたしたちであるのだから、生の世界、即ち人生を四苦八苦するのは当たり前でしょう。
実はしょっちゅう経験していることを、いまだ経験し得ていない最後の最後に襲って来る恐ろしい経験だという脅迫観念に苛まれているのですから、四苦八苦するのは当然であります。
死とは、振り子が真下に止まることを言うのです。
死とは、『今、ここ』に止まることを言うのです。
死とは、振り子が振れている生という中で、一瞥という経験をすることで、別世界のことではないことを、わたしたちに教えているのです。
完全な死とは、振り子が完全に止まることで、振り子を振るモーメントという生命エネルギーが枯渇したときに起こる現象で、一旦完全に止まるともう二度と再び動くことはない。
完全な死こそ、完全な、『今、ここ』であるのです。
『今、ここ』に生きるとは、『今、ここ』の一瞥を認識して生きていることに外なりません。
『今、ここ』に生き切るとは、一瞥の認識の継続行為に外なりません。
継続行為の大切さの所以であります。
継続行為とは、毎日を努力することに外なりません。
『今、ここ』とは、努力に外なりません。
努力の結果、完全な、『今、ここ』という褒美がわたしたちを待ち受けているのであって、それが完全な死という、わたしたちが怯え続けている死の正体であるのです。
『努力』という月並みな言葉が死語になりかけている現代社会は、まさに振り子に振り回された世界と言えるのではないでしょうか。