Chapter 231 不変の世界

過去、未来というのは、結局の処、現在という唯一の時間に凝縮されていると言っても過言ではないでしょう。
現在のことも一瞬あとには、過去になってしまい、未来のことも一瞬あとには現在になっているわけですから、問題は一瞬の捉え方次第で、過去も未来も現在になるのです。
ある人にとっての一瞬が1秒かも知れないし、1分かも知れないし、1時間かも知れないし、1日かも知れないし、1年かも知れない。
また別の人にとっての一瞬はナノ秒(10億分の1秒)かも知れない。
では何故、一瞬とは人によって違うのでしょうか。
「神はすぐ傍」の中で、宇宙生成の話をしましたが、天文学者や物理学者は、わたしたちの宇宙が誕生した直後に4つの力が生れたと主張し、先ず「重力」という力が、宇宙誕生つまりビッグバンの10の44乗分の1秒後に生れ、更に10の36乗分の1秒後に、「強い力」が生れ、更に10の11乗分の1秒後に、「弱い力」と「電気の力」が生れたと言うのです。
わたしたちにとっては、10の44乗分の1秒も、10の36乗分の1秒も、10の11乗分の1秒も、日常生活をする上でどこに違いがあるのか、と思います。
現に、日常生活をする上で影響がある時間というのは、分ぐらいまででしょうか。
鉄道や航空機の時刻表は分刻みまでであって、秒刻みにしても意味がありません。
それなら時間の単位を分までにしても、何ら問題はない筈です。
江戸時代までは、十二支を、「刻」として刻み、時間の単位にして、1刻が2時間ですから、2時間が時間の最小単位であったのです。
現在でも、原始生活をしている人たちにとっては、朝太陽が出て、夜太陽が沈むのを見て、1日が経ったことを知る生活でしょうから、1日が時間の最小単位ではないでしょうか。
天文学者や物理学者は、10の44乗分の1秒でも時間であり、時間も分も秒もない、1日が時間の最小単位として原始生活をしている人たちも同じ地球上に住んでいるのです。
人間社会の文明度は時間の刻み方に比例−反比例していると言った方が適切かもしれませんが−しているらしい。
オリンピックで時間の競争をする競技の記録が、昔は秒若しくは10分の1秒までであったのが、今では100分の1秒単位まで細かくなっているのは、計る時計の精度がよくなったからだけではないようです。
では、それほど精度の高い時計などなかった時代に、10の44乗分の1秒をどうして計ったのでしょうか。
多分、机上の計算だったのでしょう。
結局の処、個人の主観の問題であるのです。
恰も、究極の客観要因だと思っていた時間が、実は個人の気持ちの問題でいろいろな姿を現わすのが時間であるわけで、ここに大きな錯覚の原因がある。
それは冒頭で申しました、過去や未来という時間は、現在という時間の一部であり、その捉え方は個人によって1秒であったり1日であったりと、それぞれ違うということに通じるのです。
時間とは、時と時の間の幅だと、「神はすぐ傍」で書きました。
幅は個人の気持ち次第であるわけですから、時間即ち過去、未来、現在は普遍的ではない。
普遍的であるのは時間ではなくて、時であることがわかってきます。
時間を表現するには、1秒、1分、1時間、1日、1年といろいろな単位がありますが、時を表現するのは不可能です。
だから普遍的なのです。
わたしはそれを、『今、ここ』という表現をしているわけです。
過去、未来、現在は、時間の表現方法。
『今、ここ』は、時の表現方法。
わたしたちが生きているのは、時間の世界でしょうか、時の世界でしょうか。
目が醒めている世界、所謂現実の世界は時間の世界です。
夢を観ている世界は時間の無い世界です。
このふたつの世界を超えた世界が、普遍−不変でもある−の、時の世界であるのです。