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Chapter 232 21世紀の宗教 人は、その時々の年齢によって、想いの強さが変化するものです。 この変化を、想念と言ってもいいし、心と言ってもいいのですが、ただ想念の方が心よりも変化の度合が大きいわけです。 しかし、変化そのものであることには変りありません。 心はころころ変わることから、「こころ」と言われる所以です。 これも、わたしたちの生きている世界が、運動の光と音(喧騒)の宇宙であるからで、静止の暗闇と沈黙の宇宙なら有り得ないことです。 変化するということは、ある状態から別の状態へ移動することを言うのですから、移動、つまり運動している。 150億光年の拡がりを持つわたしたちの宇宙は、150億年前に誕生した直後に、4つの力が生れたと、天文学者や物理学者が主張していると申しました。 力の存在がわたしたちに一体何の関係があるのだろうと、一般の人間は疑問を持つのではないでしょうか。 「重力」や「電気の力」は、日常生活にも関係があるように思えるが、「強い力」「弱い力」などと言われても、俄かにピンとはきません。 学者がもっと反省しなければならない点です。 一般のわたしたちにも十分理解できる話をしてはじめて研究の成果があがるわけで、一部専門家の間だけで理解されても何の意味もないことを知るべきです。 ところが無理やり難しい言葉を造って、自分たちの世界だけで悦に入っているその姿は、まさに専門馬鹿と言われても仕方がないでしょう。 決して賢いわけでも、偉いわけでも、ましてや立派なわけでもないことを認識すべきでしょう。 力が存在するということは、動くということに外ならない。 従って、力が存在しないなら、動くということも有り得ないのです。 わたしたちの宇宙が誕生した直後に、4つの力が生れたと言いました。 わたしたちの宇宙が、動く宇宙、運動する宇宙である所以で、一方その前の宇宙は力のない宇宙、運動しない静止した宇宙ということになります。 すべてのものが(兎に角)動くのが、わたしたちの宇宙であるのですから、変化の宇宙であり、その変化の基本が円運動であるのです。 従って、星や地球が円運動するように、わたしたちも円運動をしているから、ころころと想いも変化して、心や想念といった概念が誕生したわけです。 心は実態あるものではなく、単なる概念、考え方だと申しました理由がここにあるのです。 すべては運動する世界にいるが故のことなのですが、一方で静止している世界もある。 果てのある世界に対して果てしない世界、有限世界に対して無限世界、天地創造の神の世界に対して神を創造した世界・・・この世に対してあの世・・・運動の世界に対して静止の世界に帰結してしまうわけであります。 ここの処をしっかりと掴んで頂かないと、せっかく230以上ものChapterを重ねてきた意味が水泡に帰すことになるほど重要なのです。 宗教は、この世に対してあの世があり、あの世は目に見えない、死後の世界であると言ってたぶらかして来たわけです。 ところが、この世に対するあの世が隣り合わせの身近な世界になったら、今までの宗教の存在理由はなくなる筈です。 宗教の本質とは、わからない世界の話をする点にあるわけで、わからないことがわかったら、宗教は存在できなくなるという、まさに詐欺的性格が、その本質であることを見抜かなければなりません。 心とか、想念とかいった概念も、宗教から生れたものであって、もともとそんなものは人間の世界に存在しなかったのです。 他の生き物の世界には、宗教など存在しないから、彼らはいきいきと生きているのです。 心はころころ変わるから「こころ」と言われるように、生きるとはいきいきするから「いきる」のです。 四苦八苦の人生を、生きているとは言えないのです。 幸福の人生を、生きているとも言えない、ましてや不幸の人生も、生きているとは言えないのです。 いきいきと生きる人生こそ、「生きる」ことであるのです。 21世紀には、(今までの)宗教は消滅するだろうと申しました。 わからないことがどんどんわかってくるであろうと予想されるからです。 新しい宗教を開こうとされるなら、更にわからない概念をつくらないと21世紀には通用しないことを教祖様も認識するべきでしょう。 ましてや、63億人もいる現代人間社会の大半が、多く見積もったとしても数億人程度−1億2700万人いる日本の人口も千二百年前の平安時代には900万人しかいなかった−の三千数百年前に生れた宗教、二千数百年前に生れた宗教、千数百年前に生れた宗教をいまだに信じて、お互いに殺し合いをしている人間とは、馬鹿馬鹿しさを超えて阿呆ではないかと思うのです。 |