Chapter 233 21世紀の科学

この世が、いまわたしたちが生きている世界。
あの世が、死後の世界。
この考え方は、わたしたち日本人には有神論の方のみならず、無神論の方にも浸透しているようです。
今では春分の日、秋分の日となっていますが、昔は彼岸の中日と言われていました。
彼岸とは、あの世のことで、この世を此岸と言ったのに対峙した言葉であるのです。
彼岸(ひがん)とは、彼(か)の岸。
此岸(しがん)とは、此(こ)の岸。
両岸に挟まれた川が三途の川です。
死ねば、三途の川を渡って、あの世に行くというわけです。
仏教の教えであるのですが、他の宗教でも同じ概念があって、結局の処、死んだ経験がない、わたしたち生ある人間が、未だ見たことのない、しかし必ずいつか経験するであろう死後の世界をどう考えるかのひとつであるのです。
「どう考えるかのひとつ」、つまり考え方であるのです。
考え方は、十人十色であり、63億の人間がいれば63億の考え方があるわけで、まったく同じ考え方の人間は二人といないのです。
考え方は、個人固有の問題であり、如何なる圧力を以っても、個人固有の考え方の自由を奪う、つまり他人の考え方を強制的に変えることはできないのです。
お互いに同じ経験をしてはじめて、同じ考え方を共有することができるわけで、お互いに経験がない死後の世界について、まったく同じ考えを共有しようとすることなど馬鹿げているのです。
ここに一輪の美しい花がある。
わたしたち日本人は薔薇と総称している。
アメリカ人はRoseと総称している。
薔薇にもいろいろな薔薇があり、RoseにもいろいろなRoseがあります。
しかし、薔薇と呼んでいる日本人と、Roseと呼んでいるアメリカ人が、この一輪の美しい花を経験するには、同じ時、同じ場所にいなければなりません。
更に、たとえ同じ時、同じ場所にいても、この花が薔薇だと考えたり、Roseだと考えたりすれば、この一輪の美しい花の経験を共有することはできません。
この一輪の美しい花は、自分を薔薇とも思っていないし、Roseとも思っていない、ただの名無しの花であるのですから、薔薇だと考えている日本人も、Roseだと考えているアメリカ人も、名無しにならない限り、この一輪の美しい花が存在する、『今、ここ』を共有することはできないのです。
自己同化(Self−identify)、つまり薔薇だとか、Roseだとか、日本人だとか、アメリカ人だとか思っている限りは、『今、ここ』を共有することは絶対不可能なわけです。
宗教は、それを無理やり共有しようと言うのです。
更にひどいのは、それを薔薇だと信じるのだ、Roseだと信じるのだと強制しているのです。
薔薇教、Rose教、日本人教、アメリカ人教・・・・・仏教、キリスト教、イスラム教・・・と無数の名札を捏造する。
それが20世紀までの宗教の正体であるのです。
未だ見たことのない、死後の世界が在るのか、無いのか。
目が醒めた所謂現実の世界と、夢を観ている世界というふたつの世界を往来しながら生きているわたしたちですが、果たしてこの世とあの世をも往来しているのでしょうか。
そのヒントは、運動の光と音(喧騒)の宇宙と、静止の暗闇と沈黙の宇宙の関係に掛かっていて、21世紀の科学が解明してくれることに期待しているのです。