Chapter 238 性悪説の歴史

すべてのものが変化し、移ろいで行くのが、わたしたちが生きている無常観の世界であります。
だから、善と悪が、富と貧しさが、強いものと弱いものが・・・そして幸福感と不幸感が交互に表れ、それが人生の苦悩を生む結果となっているのです。
これら二元要因が、確実に交互に表れるなら、果たしてわたしたちは苦悩するでしょうか。
不幸感のあとに必ず幸福感が訪れるならーもちろんそのあとには再び不幸感がやって来るのですがー人生の捉え方は今までとは明らかに違ってくると考えられます。
なぜ、幸福感、不幸感と言ったのか。
結局の処、善悪にしても、貧富にしても、強弱にしても、本質としてどちらが好くてどちらが好くないかの判断は個人の主観によって決まるから、・・感であるわけです。
宇宙の法則での二元論は、どちらが好くてどちらが好くないという判断など無いのですが、人間がそれを判断するようになった結果、二元論が苦悩の原因になっただけのことです。
旧約聖書の創世記で、イブがそしてアダムが善悪の判断の木の実を食べた結果、人間はエデンの園を追放される羽目になったというわけです。
人間のすべての苦悩の原因が、ここにあると言うのです。
実に透徹した洞察ではありますが、発想が性悪説に基づいているのです。
だからと言って性善説が好いと言うわけでもありません。
「これは好い、あれは好くない」
この考え方が、すべての苦悩の原因であるのです。
あるがままを受け入れるということが、苦悩から自由になれる唯一の方法なのですが、これが難しいのは、わたしたちがこの世に生れ落ちた時に、アダムとイブの経験つまり最初に、「これをしては好くない」という経験が、イブという母親との間で展開されたからです。
イブという母親が、アダムという赤ん坊に、善悪の判断を強要した結果なのです。
天地創造の神が人間に原罪を与えたわけでもなく、蛇という智恵の神が、人間を誘惑したわけでもないのです。
「これは好い、あれは好くない」と最初に吹き込んだのが原因なのです。
旧約聖書の中で神が示している多くの戒めを吹き込んだものが張本人であるのです。
わたしたち日本人は本来こういった考え方に馴染まない民族でしたが、戦後のアメリカの対日本政策が、1億総隠れキリシタンに洗脳・改宗してしまったようです。
先祖を崇める神道では、旧約聖書で言われているような戒めはありません。
「汝、殺すなかれ」
「汝、盗むなかれ」
「汝、姦淫するなかれ」
神道の神さまは、なんでも許してくれます。
それよりも礼や義を重んじる神さまです。
善悪の判断は、旧約聖書に基づく世界、つまりユダヤ教を原点にした、キリスト教、イスラム教世界の話なのです。
ところが、ローマ帝国以来中世、近代、そして現代に至るまで、世界の歴史は、旧約聖書、そして新約聖書の世界が支配してきたのです。
その中で、その影響を最も受けていないのが、戦前までの日本であったのです。
日本でのキリスト教信者総数は100万人強で、人口の1%にも満たないのは、世界でも異例であるのですが、残念ながら、自覚のない1億総隠れキリシタンにされてしまっているから、無宗教国民と思われているのです。
韓国では、4人に1人つまり25%がキリスト教徒であり、フィリピンは10人の中9人までがキリスト教徒であり、欧米世界とは別の、中華思想の世界を構築してきた中国でさえ、キリスト教徒は数千万人、つまり数%の普及率であることをご存じでしょうか。
戦前、欧米社会があれほど中国征服に拘った原因は、政治・経済問題よりも宗教問題にあったのが、歴史の真実ではないでしょうか。
今や世界は、キリスト教を中心とする聖書が基本の世界観になってしまっているのです。
だから、旧約聖書をベースにしたコーランだけをバイブルにしているイスラム教世界を目の敵にしているのです。
ユダヤ教も旧約聖書だけをバイブルにしているのですが、敵の敵は味方という発想からでしょうか、欧米社会と連繋したイスラエルと、イスラム社会の問題であるパレスチナ紛争も、結局は聖書民族の内輪揉めであるのです。
結局の処、幸・不幸の区分けが苦悩の原因であり、幸・不幸の繰り返しが問題ではないということなのです。
幸・不幸が確実に交互にやって来れば、区分けができなくなって、結局、幸福感も不幸感も生じないのです。
幸福が少なくて、不幸が多いと思い込むから、幸・不幸の区分けができ、結果苦悩の原因が生じるのです。
本来、真っ白で何にも染まっていない宇宙の法則である二元論に立ち帰ることができるか、それを可能にしてくれるのは、もはや宗教ではなく、科学の善用しかないように思えるのです。