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Chapter 240 勇気を奮い臆病を断つ 『今、ここ』にいると、迷いが一切なくなります。 迷うということは、考えるということに外なりません。 考えるということは、想いの繋がり、つまりまったく関連性のない別々の想いが、もの凄いスピードで連想ゲームをすることです。 従って、考える(思考する)ことこそ連想に外ならないわけでして、わたしたちは今まで、考えることは頭で、感じることはハートでと、別のものと思って(考えて)いましたが、実は感じることだけ−つまり想い−が在って、想いのひとつひとつがもの凄い速度で移ろいで行くことで、それらの複数の想いが一つのように勘違いしてしまっているのが考え(思考)の正体であり、心の実態であるのです。 心というものがあって、心が迷っているのではなくて、迷っている状態そのものを心というのです。 つまり、考えること(思考)が心であると言ってもいいでしょう。 感じること(想い)は、『今、ここ』でしか経験できません。 感じることを、過去や未来に想いを馳せて−想いを馳せることが連想であり思考である−できるでしょうか。 思考(Thinking)は、想いが移ろいで行く(Feelingが気づかないうちにThinkingになる)ことと申しましたように、動く状態であり、想い(Feel)そのものは静止した状態であるのです。 それぞれ固有の想い(Feel)は静止しており、複数の想いが連なる(Feelingする)ためには運動しなければならないのです。 ここのところをしっかりと理解しておかなければなりません。 時間というのは動くもので、時間が止まるということは、動きそのものが消えてしまうことですから、思考(心)というものも、時間の中でしか起こり得ないものなのです。 過去、現在(過去の一部であり、未来の一部でもある)、未来というものは、時間が存在してはじめて生じる概念であって、時間が止まると過去も未来もなく、『今、ここ』しかないわけです。 心、思考、想念とは、時間あっての概念であり、それは移ろいで行くこと自体に外ならない。 想い(Feel)とは、『今、ここ』でしか味わえないもの、つまり経験であって、それは静止した状態でしか実現でき得ないものであるのです。 そうしますと、わたしたちの生きている宇宙は、運動(の光と音)の世界であるのですが、静止(の暗闇と沈黙)の宇宙にも生きていることがわかってきます。 『今、ここ』にいると、静止の暗闇と沈黙の宇宙にいるわたしたち。 過去、現在、未来にいると、運動の光と音(喧騒)の宇宙にいるわたしたち。 従って、心(迷い)というものは、運動の光と音(喧騒)の宇宙でしか起こり得ないわけですから、『今、ここ』にいると迷いが一切なくなるのは当然のことなのです。 体験(経験)がすべてであり、知識は現実の世界では無用の長物であるのは、知識とは思考の産物であって、思考は想いという経験なくして生じ得ないからです。 心や思考や想念というのは、想いの派生物(概念)であることを理解しなければなりません。 心など在り得ないと申しました所以がここにあります。 心が迷いの原因であり、迷いが不安の原因であり、不安が四苦八苦の人生の原因であるのですが、そもそも心などないのです。 あるのは、『今、ここ』で経験する想いだけなのです。 考えることが知性を生み、知性が知識を生み、知識が不安感という臆病をつくるのです。 知識を蓄積するとますます臆病になり、深淵(Abyss)を経験するということを避けた生き方をするようになります。 他の生き物は、『今、ここ』に生きていますから、注意深いが臆病ではありません。 わたしたち人間は、『今、ここ』に生きていないから、不注意であり臆病であるのです。 断崖絶壁の、『今、ここ』に立って、深淵(Abyss)の谷底に想い切って(連想を断ち切って)ジャンプすることです。 それが勇気を奮うことに外なりません。 |