|
Chapter 244 愚図の人生 “他人が地獄” フランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルは言いました。 “神は死んだ” ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェは言いました。 彼らの生きた世界の違いから出た言葉でしょうが、結局の処、人間は自分独りの世界に生きているのであって、他人や神というものは単なる概念だけで実体あるものではないのに、そんなものに振りまわされて生きることは間違っていると主張しているのでしょう。 自分独りしかいない世界。 ここのところをなかなか理解できないわたしたち凡人であります。 現に、自分のまわりには、家族がいる、恋人がいる、友人がいる・・・会社の同僚や上司がいる・・・いろいろな他人が存在しています。 しかしよくよくまわりを見てみるとわかってくることがあります。 いろいろな他人が存在しているように見えますが、彼らは決してあなたの陰のように、あなたにぴったりと纏わり付いているわけではありません。 時間が経つにつれて、彼らは彼ら独自の世界に戻って行きます。 それはお互いの現象です。 そうしますと、あなたが生れてから死ぬまで、ずっとあなたの傍に纏わり付いているのは、あなたの陰以外ないわけです。 自分以外のものは、すべて時と共に過ぎ去るものなのです。 生れて来た時は独り、死んで行くのも独り。 “男なら 男なら 生まれて来た時ゃ 裸じゃないか 死んで行くにも 裸じゃないか 生きている間に ひと仕事 男なら やってみな” こんな唄を若い頃によく歌ったものです。 わかっているのです、みんな。 それなのに、いざ生きるとなると、“誰それがああ言った、こう言った”とギャーギャー騒いでおるのが、この世であります。 やはり、この世は夢うつつの世界であると、身体の片隅で思っているのでしょう。 歴史上の英雄、織田信長にしても、豊臣秀吉にしても、天下を取っても最後は、この世は夢うつつと言って死んで行ったのです。 わかっているのです、みんな。 ではなぜ、わかった通りに生きて行けないのでしょうか。 自分独りで生きている世界の唯一の主人が自分であることはわかっているのですが、主人の主人である所以は、従なるものが在るから、主人であることをわかっていないからです。 “自分は主人である” この想いばかりで生きていて、自分の人生を彩ってくれるのは、従である景色であることをわかっていないからです。 人生が楽しいのは、自分の人生を彩ってくれる景色如何であることをわかっていないのです。 「夢の中の眠り」では、この景色のことを、「背景画面」と名づけました。 確かに、“自分は主人である” しかし背景画面が美しいものであった方が、自分の人生がより彩る。 このバランスが妙であるかどうか。 しかし、わたしたちは、“自分は主人である”で生きている。 わかっているのです、みんな。 しかし、わかっていないのです、みんな。 愚図愚図言って生きておるのです。 最後に、愚図愚図言って死んで行った大御所の辞世の言葉と、『今、ここ』を愚図愚図言って生きている著者の詩を紹介しておきましょう。 「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢、幻の如くなり、ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」−信長 「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」 −秀吉 「蟻ほど 働きものは 他にはいない その次の 働きものは 人間だ だから 人間は 蟻を 目の敵にする 一生懸命 働く 蟻ほど 憎らしい そして 足で 踏んづける その 働き蟻は 即死する 踏んづけた 人間は 何もなかったように 又 他の蟻を踏んづける 蟻の世界は 原爆を落とされた 混乱状態 阪神大震災の混乱状態 それでも 人間は 無関心 それなら 人間も ギャー ギャー 騒ぐでない」 「蟻の一生」より −新田論 |