|
Chapter 246 生死を度外視した生き方 人生において最も大切なことは、生と死とが直結した生き方をどれだけしているかに尽きるのです。 ところが、わたしたちはそういう生き方を極力避けて、死が必ずやって来ることを承知しているが、忘却の彼方に追いやって生きて行こうとしているわけです。 しかしそれでは、本当に生きている気はしないのです。 それはまるでゴールの無い競争をしているようなもので、100メートルダッシュの競争もあれば、42.195kmのマラソン競争もありますが、どれだけ走るのか分からないで競争をしろと言われて一所懸命走れるわけがありません。 前Chapterで吉田松陰の話をしました。 彼は、『人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐって営まれるようなものではないのだ。しかしながら人間にはそれにふさわしい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳のなかにおのずと四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十歳、百歳にもおのずから四季がある。十歳を以って短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳を以って長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。 私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した栗の実であるかは、私の知るところではない』 と言って、自分の四季は30才を以って完結すると達観していたのです。 問題は何才まで生きるかではなくて、春夏秋冬という四季を完結できる人生を生きているかどうかであるのです。 自己の人生において、今は春なのか、それとも冬なのかを自覚した生き方をするには、自己の四季つまり死期を常に意識していなければできません。 それは決して死を憧れるという意味ではありません。 吉田松陰はこうも言いました。 『死は好むものではなく、また憎むべきでもない。世の中には生きながらえながら心の死んでいる者があるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業をなしとげる見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。つまり、人間というものは、生死を度外視して、要するになすべきをなす心構えこそが大切である』 生死を度外視するとは、生死を受けとめた上で更に超えていることであり、それは生死を意識して生きていることに外ならないわけです。 わたしたちは生死を度外視した生き方を普段しているでしょうか。 死は必ずやって来ることを承知していながら、死を忘却の彼方に追いやって生きていることが、生死を度外視した生き方だと言えるでしょうか。 見て見ぬ振りをする臆病な生き方をしていることに外ならないことは、自分が一番承知している筈です。 この見て見ぬ振りをする臆病な生き方をして来たことが、人間社会の悲劇の歴史に繋がってきたことを、よくよく認識すべきであります。 暴力団のような反社会勢力が蔓延る社会は、この見て見ぬ振りをする臆病な人間が構成する社会の結果であるのです。 戦争をする国家は、暴力団と何ら変わらないのは、結局の処、見て見ぬ振りをする臆病な人間の弱点を見抜いた行為という点において何ら変りはないからです。 その原因はすべて、生死を度外視した生き方をしていないことに尽きるのです。 教育の問題にしても、政治、経済の問題にしても、人間社会のすべての問題の原点には、この生死を度外視した生き方をしていないことが横たわっていることを、洞察しなければなりません。 先ずは、己が生死を度外視した生き方をしているかどうかをチェックすることです。 そういう点においては、全体の問題ではなく、やはり個人の問題に帰結するわけです。 社会がおかしいのは、すべて個人がおかしいのが原因であるのです。 何故なら社会が生死を度外視した生き方をすることは不可能なのですから。 |