Chapter 247 一生・一年・一日と一瞬

自分の一生の最後に死が待ち受けている。
確かに間違いはありませんが、それが原因で、わたしたちは日々の人生を無駄に過ごしていることも確かであるわけです。
だから自分の一生の最後が決して死ではないという考え方に惹かれ、輪廻転生というトリックに飛びつき、宗教という落し穴にはまり込むのです。
時間の概念について絶対的なものは、一日と一年だけであると、「神はすぐ傍」で申しました。
一日が24時間、1時間が60分、1分が60秒、1週間が7日などは、すべて地球上の人間が決めたことで、地球上の他の生き物にとってはまったく関係のない単位であります。
関係あるのは一日と一年だけであるのです。
しかも、それは地球上に存在するものだけに適用されるだけで、地球以外の星では一日と一年自体の単位も違うわけです。
隣にある水星や金星では一年がおよそ二日であるし、木星や土星では数万日が一年になっていて、火星が地球と最も近い一年670日であるから火星人が存在しているのではと空想するわけです。
絶対的な時間というものは、わたしたちが普段時間と考えているものではないのです。
その中で、唯一わたしたち地球上の生き物にとって基準として考えていいのが、一日と一年であるわけです。
そこで一日と一年の関係はどうなっているかと申しますと、一日は地球が一回自転することであり、一年は地球が太陽のまわりを一周する公転のことであり、自転が365.25回すると1回の公転になるぐらいのことは、わたしたちも知っています。
朝が来て、昼間があって、夜になり、再び朝がやって来る。
春が来て、夏になり、秋が来て、冬になり、再び春がやって来る。
一日も一年も、「再び」やって来ることで完結する、つまり円回帰運動をしていることが共通項である点に注目すると、大いなるヒントが見えてくるのです。
自分の一生の最後に死が待ち受けている。
一日と一年の関係に置き換えてみると、一生の最後の死は一年の最後と同じと考えられるわけです。
春夏秋冬の冬の終わりが一生の最後の死と考えられる。
しかし、朝昼夜の夜の終わりの死もあることを忘れてはならないのです。
一日の中にも生死の円回帰運動が厳然と存在していることを、わたしたちは忘れてしまっているから、日々の人生を無駄に過ごしているのです。
死の一瞥が一日の繰り返しの中にあるのです。
悟りを得ることは不可能に思えても、悟りの一瞥は日々の暮らしの中にいくらでも経験できるのです。
セックスのクライマックスの経験は、自己を滅するという悟りの極意の一瞥を経験させてくれるのです。
夢の中で経験することは、時間を超える経験、つまり時間が止まっている世界の一瞥を経験させてくれるのです。
一日という、朝昼夜そして再び朝が訪れる繰り返しの中に、死の一瞥が随所にあるのです。
朝目が醒めるということは、生の始まりであり、夜眠りに就くということは死に就くという一瞥を見せてくれているのです。
また、呼吸という、吐く、吸うという瞬間の出来事の中にも、吸うのが生きることで、吐くことが死ぬことの一瞥を見せてくれているのです。
現に、わたしたちの肉体は、一生に一回の生死ではないのであって、細胞は日々生死を経験しているのです。
生死の概念は、わたしたち人間だけのものであって、他の生き物、ましてや宇宙すべてに当てはまる概念ではないのです。
在るのは、円回帰運動であって、円運動の始点が終点でもあるということだけなのです。
始点を生の誕生として、終点を死だと考えているのは、わたしたち人間だけです。
一日を一所懸命に生きる。
一年を一生懸命に生きる。
要するに、懸命に命を懸けて生きることしか無いのです。
懸命に生きることが、懸命に死ぬことに相通じ、死の恐怖を克服し、生の喜びを獲得することになるのです。
地球上における基本は一生にあるのではなく、一日、一年にあり、結局の処、宇宙を貫く真理は一瞬つまり、『今、ここ』にしか無いことを肝に銘じて置くべきであります。