Chapter 303 生命と寿命と使命

生命と寿命と使命。
すべて命に関わる言葉ですが、ここにも一元論、二元論、三元論が働いています。
命が一元であり、生命と寿命が二元であり、生命と寿命を超えるところに使命がある点において、生命と寿命と使命は三元であります。
生命とは命の始めであり、寿命とは命の終わりであり、使命とは命を生きることであります。
寿命を死と置き換えてもいいでしょう。
命とは、まさに宇宙に遍在する一元(唯一の)エネルギーのことであり、地球に生命体が36億年前に誕生した、つまり命というエネルギーが生命体に変位したわけです。
更に、8億年前に有機生命体が誕生し、数百万年前にわたしたち人類の祖先の生命体が誕生したのも、より複雑(有機的)な生命体に変位して行ったと考えていいでしょう。
命というエネルギーが変位した形が生命であり、再び死によって命というエネルギーに戻るのが寿命、即ち死であるわけです。
それでは、何故、命という遍在エネルギーが生命に変位しなければならなかったのでしょうか。
そして、再び寿命という死によって命という遍在エネルギーに戻らなければならないのでしょうか。
どっちみち戻るなら、元の命という遍在エネルギーのままでよかった筈です。
そこに使命という三元要因の意味が隠されているように思えるのです。
命一元。
生・死二元。
命・生死・使命三元。
つまり命とは静止状態のエネルギー形態であるのに対して、使命とは運動状態のエネルギー形態であり、その間に生きると死ぬという繰り返し運動があるのが、わたしたちが住んでいる150億光年の拡がりを持つ宇宙に存在する物質(エネルギー)の本質であるのです。
わたしたちは死を怖れて生きています。
何故死を怖れるのでしょうか。
怖れるには怖れる理由がある筈です。
怖れるのは、経験したことがあるから怖れるのです。
経験したことのないものを怖れることは有り得ません。
死を怖れていると思っているわたしたちですが、実は本当に生きていないことを怖れていることに気づくべきです。
そこに命と生死と使命の相対関係があるのです。
わたしたちは、いつも過去や未来のことに想いを馳せることで、『今、ここ』を生き切ることを先延ばししています。
この不完全燃焼の想いが、死までずっと続いているのが、わたしたちの人生と言ってもいいでしょう。
そしていつか必ず死を迎える。
死即ち寿命とは、生き切ったものだけが通過できる、先のない門なのです。
先がないということは、明日という未来がなくなるということです。
明日という未来が忽然と消滅することが怖いのです。
何故なら、先延ばしすることができなくなるのに、死という門を通過しなければならない。
ところが、わたしたちは生き切った人生を送っていないまま、死という門の前に立たされるから、その門は先のない地獄への門となり怖いのです。
生き切った、つまり使命を果たした想いで、死への門に立てば、その門は天国への門と思える筈です。
命を使い切ることが、命一元の遍在エネルギーが生命・寿命(生死)二元に変位した目的であり、生死を超えた三元要因である使命即ち命一元に円回帰する。
従って、命一元と使命とは一見同じに見えても、目的を果たした前後の違いがあるのです。
それが一元と三元の違いであるのです。
命つまりエネルギーを使い切る使命こそ、生命体であるわたしたちの人生における最も重要課題であるのです。
使命を未だに発見できずに生きてきた人たちが、死を迎えることが地獄であるのであって、人間が勝手につくった憲法や法律を破ったからと言って地獄に行くのではありません。
『今、ここ』こそが唯一の生きる機会なのに、過去や未来に想いを馳せることで、生きる機会を逃しているから、死を怖れる羽目になるのです。
『今、ここ』を生きると自然に自分の使命が目前に現れるのです。
使命を発見できずにいる人は、この世的成功という未来に想いを馳せ、この世的成功だったと思い込む過去に想いを馳せる人たちのことを言うのです。
『今、ここ』を生き切っている人には、この世的成功など意味がないのです。
この世的成功を収めることが使命を果たしたと勘違いしないことです。
使命を果たすと言うことは、生死を超えるということを意味するのですから、この世的成功では片手落ちであります。
有形の財産を持って、生死を超えることはできません。
つまり、お金、もの、地位などは、死んだあと持って行けません。
無形の財産なら、生死を超えて持って行くことができます。
つまり、名誉、誇り、そして思い出などは、死んだあとも持って行けます。
有形の財産のために、わたしたちは死ぬことはできません。
無形の財産のために、わたしたちは死ぬことができるのです。
無形の財産をつくることこそ、使命を果たすということであり、そのためには、『今、ここ』を生き切るしかないのです。