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Chapter 305 目に観える世界・夢 目に見えるものの世界を論じるのが形而下学であり、目に見えない世界を論じるのが形而上学であると、わたしたちは区分けしてきました。 英語では、形而下学をPhysicsと言うのに対して、形而上学をMetaphysicsと言って、日本語のように上と下で分けるのではなくて、どちらかと言うと、前と後ろの違いをMetaで表現していて、ベースはPhysicsつまり肉体であるのですから、肉体の前に現れていることを論ずるのがPhysics(形而下学)として、肉体の後ろに隠れて見えない状態のものを論ずるのがMetaphysics(形而上学)としていている点で、英語の方が極めて論理的だと言えます。 目に見えるものと、目に見えないものとは一体どういうことでしょうか。 目に見えるものを所謂現実だとして、目に見えないものをあの世だと言ったり、霊の世界だとしてきた宗教は、もうそろそろ御用済みにしなければなりません。 わたしたちは、目が醒めている世界を3分の2、眠っている世界を3分の1の割合で生きてきました。 そして眠っている世界では、必ず夢を観てきました。 つまり、人生の中の少なくとも3分の1は、眠りの世界で生きてきたことは確かです。 しかも、その眠りの世界の更に3分の1をREM睡眠つまり夢を観てきたのも確かです。 そうしますと、人生を80年、29200日としますと、29200日の3分の1である9733日分は眠りの世界で生きているわけであり、9733日の3分の1である3244日分は夢の世界で生きていることに少なくともなることは、いくら理解力の乏しいわたしたちでもわかる筈です。 3244日ということは、およそ丸々9年間であります。 人生80年の中で、丸々9年間というのは、小学時代から中学時代までの期間にあたり、また中学、高校を経て大学時代までの青春時代が10年間であるのですから、決して無視できる時間ではありません。 それだけの時間を、夢の世界で生きてきたのが80年の人生であるのに、単に夢だと切って捨ててきたわたしたちであります。 一方、まるで経験したことのない、あの世や霊の世界のことを信じるのも、わたしたちであります。 目に見えない、あの世の存在を信じ、霊の存在を信じて宗教に埋没するわたしたちでありながら、目に見える夢の世界を信じないで生きてきたわたしたちは一体どこまで愚かな生き物であるのでしょうか。 目に見えないものと、目に見えるもので区分けするから、形而上学や形而下学といったややこしい話になるのであって、経験したことのあること、経験したことのないことで区分けするのが正しいのではないでしょうか。 そういう点では、PhysicsとMetaphysicsで区分けする方がより適切であると言えるでしょう。 あの世の世界や、霊の世界を経験した人にとっては、現実の世界と、あの世や霊の世界は同じ世界つまりPhysics(形而下学)の世界であると言えるのですが、わたしたちは死んだ経験がないのですから、所詮未経験の世界から脱することはできないのです。 生きながらにして、あの世の経験つまり臨死体験や、超常現象つまり霊体験をしたと主張される方がいらっしゃいますが、体験・経験とは飽くまでも個人的なものであり、自分の経験を他人に分け与えることはできないのです。 従って、真の宗教とは飽くまで個人のものであって、団体のものではないのです。 団体の宗教とは、個人の経験を他人に分け与えたもの、つまり押し付けたものであり、その延長線上に支配者と被支配者の区分けが生じたのです。 人類の歴史とは、支配者と被支配者との間の相克の歴史であり、その中で宗教者たちが支配者たちと手を組んで暗躍してきたことは周知の事実であります。 宗教が団体になった時点で、宗教の本質から逸脱してしまって政治、経済の世界の話になっているのです。 一方、人生80年の中で丸々9年間経験している夢の方が、あの世や霊世界よりも遥かに現実に近い世界であるにも拘らず、無視して生きてきた、わたしたちの人生をどう考えたらいいでしょうか。 宗教を論じる前に、夢の世界のことを論ずることが、わたしたち生きている人間にとって先決問題であると思うのです。 |