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Chapter 306 諸悪の根源・一般大衆 四苦八苦とは、生老病死の四苦と愛別離苦(愛するものと別れる苦)・怨憎会苦(怨み憎しむものと出会う苦)・求不得苦(求めるものを得られない苦)・五陰盛苦(肉体・想い・感情・行動・経験知識という人間が具えている五陰つまり色受想行識という知的および本能的欲望に起因する苦)のことを仏教では言います。 お釈迦さんの言葉ではなく、仏教が大乗的になった時点での教義だと思われます。 何か取って貼り付けた感は否めません。 ニーチェが言った「神は死んだ」 サルトルが言った「他人が地獄である」 こちらの方が、現代人のわたしたちにはピンときます。 しかし、深刻に取り過ぎる感は否めません。 簡潔に言えば、人生は振り子の動きそのものと言っていいでしょう。 好いことがあれば、必ず悪いことがあり、悪いことがあれば、必ずまた好いことが起こり・・・・この永遠の繰り返しで、好いことの連続もなければ、悪いことの連続もないのです。 「いや、自分は悪いことの連続だった」と主張される方がいるかも知れない。 占いの類では、ものすごく好い時期、ものすごく悪い時期があるそうです。 しかし、これほど馬鹿げた、子供騙しのものはありません。 占いほど低劣なモンキービジネスはないのですが、それを商いにして大金を儲けている占い師を増長させているのは外ならぬ愚かなわたしたちです。 好いことは悪いことの裏面であり、悪いことは好いことの更に裏面であるのですから、どちらも表面であり得るし、また裏面でもあり得るのであって、表面が好くて裏面が悪いと言った問題ではないのです。 好い悪いの現象は必ず交互に表れるのです。 問題は好い悪いではなくて、交互に転換する時期、つまり好い悪いという想いの変化がある交転期にあるのです。 更に、突き詰めて行きますと、好い悪いという想いの変化が根本原因として浮かび上がってきます。 想いとは本来変化しないものですから好い悪いという問題はありません。 想いが変化したものを連想と言います。 好い悪いという問題は連想にその原因があるわけです。 では何故連想が生じるのでしょうか。 想いそのものは本来変化しない、つまりひとつだけのものです。 これが自分という個人の基本です。 連想は複数の想いですから、ひとつだけの自分ではなくて複数の自分がいることになります。 独りだけの「わたし」と、複数の「私」とを区別した所以であります。 連想は複数の想いであるのに、一つの想いと勘違いして、それを「心」と称しているのです。 「心」とはころころ変わるバラバラの想いであるのは当然なわけです。 そしてそんな「心」を自分だと勘違いしているのが複数の「私」であるのですから、どれが自分で、どれが他人であるのかまったく判別できないでいるのが、わたしたちの実体であるのです。 Chapter293「努力は『今、ここ』の主人」の中で台風のメカニズムがそのまま自分と言う個人のメカニズムに当てはまると説明致しました。 問題は、自分の中にあるのであって、他人の中にあるのではないのです。 つまり、台風の目である「わたし」と、台風の「私」との間の相克・葛藤であって、「私」と他人との間の相克・葛藤ではないのです。 「私」と他人とは、同じ台風の仲間同士であるのです。 その他人の中には、愛する人、身内の人、友人、同僚そして仇敵もいて、みんな「私」と同じ台風の仲間であるのです。 自分の拠って立つ処が、「私」である限り永遠に暴風雨圏内の人生であるのです。 仇敵の仲間の方が、愛する人や身内の人たちよりも暴風雨の烈しさはまだましなのです。 それは台風の目に近ければ近いほど荒れ具合が烈しいからです。 しかし、ひとたび自分を台風の目の中に置いてやれば、無風快晴の雲一点ない自分が発見でき、荒れ狂う台風の中にいる愛する人や、身内の人たちを愛しむ想いが必然的に湧いてくるのです。 そうしますと、四苦八苦がどうのこうのギャーギャー喚いたり、やれ「神は死んだ」とか、「他人は地獄」とか深刻に取ることが阿呆らしくなってきます。 問題はすべて自分にあるのですから、人生とは自分独りだけの世界であることは自明の理であります。 ところがいくら、自分は独りだけの世界に生きていると、口酸っぱく言い続けても、「いや、自分には家族もいる、友人もいる、同僚もいる・・・そして敵もいる」と愚図愚図言って生きておるのが、哀しいかな、わたしたち一般大衆であるのです。 一般大衆こそ諸悪の根源であるとは言い過ぎでしょうか。 昨今の劣悪なテレビ番組を見て、こんなものにうつつを抜かしているのが一般大衆であるならば、やはり諸悪の根源と言わざるを得ないのは、わたし一人だけでしょうか。 |