Chapter 310 凄味のある人生

“味のある人生”
いまの日本人に欠けているのは、この言葉であります。
唐突に聞こえるでしょうが、逆に言えば、“味も素気もない人生”を送っているのが、わたしたち現代人であるように思えてなりません。
それでは人生における味とは、一体如何なるのものでしょうか。
味という言葉から先ず思い起こされるのは、五感の中のひとつである味覚であり、舌鼓を打つことでしょう。
グルメ流行の昨今ですが、人間にとって生きて行く上の基本要件である衣食住とは、五感に充足感を与えることであるわけです。
一方、味とは、生きて行く上の基本要件に更に心地好さを与える付加価値であって、単に味覚器官である舌という鼓を打つだけでの意味ではないのです。
人間という生き物は、“見る”生き物だと申してきました。
五感の中で、視覚である目を最もよく使う生き物が人間なのです。
従って、視覚である目で以って見るという中に、味を加えることが、人生つまり人間が生きて行く上においての味であるわけです。
犬という嗅覚が最も働く生き物にとって、味のある人生(犬生)とは、味のあるつまり心地好い匂いであるわけです。
グルメにうつつを抜かすのも一興でありますが、それでは人間は、“見る生き物”ではなくて、“舌鼓を打つ生き物”になってしまいます。
二本足の動物になったときから、人間は“見る生き物”になり、延いては“考える生き物”になったのです。
従って、“味のある人生”とは、まさに見る行為の中に味を加えることに外ならないのです。
見るという行為にはふたつあり、またそれぞれの器官が別にあります。
額の下に並んでいるふたつの目は、外の景色を見る器官です。
額の真中つまり眉間の部分が、内の景色を観る器官で、所謂第三の目と言われているものです。
ふたつの目を開けていると、第三の目は機能しません。
ふたつの目を閉じていると、意識は自然に眉間の部分に集中して、直径3cmほどの薄白の光が見え、第三の目が機能していることを示しています。
夢を観るのは、この第三の目が直径3cmほどの薄白のスクリーンを観ているのです。
REM(Rapid Eye Movement)睡眠と言われる、夢を観ているときの睡眠状態とは、目を速く動かして、夢という背景画面を観賞していることに外ならないのであって、第三の目が機能しているわけです。
人生80年つまり29200日の人生の3分の2であるおよそ20000日はふたつの目で外の景色を見る人生であり、残り3分の1であるおよそ10000日は第三の目で内の景色を観るつまり夢を観る人生であるわけです。
荘子が蝶々の夢を観た話をしましたが、わたしたちの3分の2の目が開いた人生と、3分の1の目を閉じた人生において、どっちが夢で、どっちが現実なのか、よくわからないのが実態であるのです。
実のところ、3分の2の人生と、3分の1の人生に分けることがそもそも問題であることに気づかなければなりません。
身体の各器官は、四六時中つまり29200日無休で働いておるわけですから、彼らにとっては3分の1の人生と、3分の2の人生などないのです。
荘子が憂鬱になったのは、この点にあったのです。
つまり人生とは、夢そのものなのか、現実そのものなのか、どっちかしかないのです。
果たして、わたしたちの人生は、目が醒めている間の所謂現実の世界そのものだと断定できるでしょうか。
荘子はできなかったから憂鬱になったのです。
結論は、わたしたちが生きている限り出ないでしょう。
死ねば出るかも知れませんが、経験した人は生きていません。
では、ここまでわかっている中で、どのような生き方をすればいいのでしょうか。
選択は三つあります。
夢つまり眠っている間を人生そのものと捉える生き方。
所謂現実つまり目が醒めている間を人生そのものと捉える生き方。
夢と所謂現実をひとつと捉える生き方。
夢を人生そのものと捉えると所謂現実を否定することになる、所謂現実を人生そのものと捉えると夢を否定することになるわけで、わたしたち人間が分裂症状の生き物である所以がここにあり、二元論の世界であるわけです。
夢若しくは所謂現実一元の世界か、夢と所謂現実二元の世界か、夢と所謂現実の世界を貫く三元世界か。
“味も素気もない人生”とは、目が醒めている間だけを人生と捉え、夢を観ている間を無駄にしている人生であります。
“味のある人生”とは、夢を観ている間も人生と捉える生き方であると言えるでしょう。
“凄味のある人生”とは、夢と所謂現実の世界を貫く三元世界に生きる人生であり、それはまさしく、『今、ここ』を生き切る人生であるのです。