Chapter 325 神はすぐ傍

朝目が醒めた瞬間(とき)、夜眠りに就く瞬間(とき)が意識のギヤーシフトつまり顕在意識と無意識との間のニュートラルギヤー状態にあると以前申しました。
そして意識がニュートラル状態−意識でも無意識でもない状態−にあることが、『今、ここ』にいることであり、過去・現在・未来という水平的流れの時間から高い・低いという垂直的流れの虚時間へギヤーシフトできる機会でもあるわけです。
呼吸においても、普段のわたしたちは無意識の内に吸う・吐くの繰り返しをしているのですが、吸うことと吐くことも、意識と無意識のギヤーシフトと同じことで、その折り返し点がニュートラル状態つまり、『今、ここ』という虚時間に目線が向いた状態であるのです。
一日24時間、四六時中、『今、ここ』にいることが、目指す究極の状態であり、悟りの状態とは、まさにこの状態を言うわけです。
お経を読んだからと言って悟りの境地に近づくわけでもないし、聖書やコーランを左手に持って聖戦と叫んで人殺しをするのを神が許すわけでもないのです。
座禅をして無心の境地になろうとするのも、結局、『今、ここ』にいることを目指していることに外ならないわけで、無心の境地が目的ではなくて、『今、ここ』にいるための、飽くまで手段が無心であることを知らなければなりません。
そしてその萌芽は、日常生活の中で随所にあり、ただそのことに気づくだけで、『今、ここ』にほんのちょっとの間だけでもいることが出来るのです。
それが一秒なのか一分なのか一時間なのか一日なのか一年なのか一生なのかは、大差ないのです。
大差があるのは、0秒と一秒の差であり、ナノ(10億分の一)世界に突入している現代社会であるのですから、ナノ秒つまり10億分の一秒でも、『今、ここ』にいることが大切なのです。
つまり、その気になっているかどうかの問題であって、テクニックの問題ではないのです。
『今、ここ』に生きようとする気にさえなれば、機会は随所にあるのです。
朝目が醒めた瞬間(とき)に、『今、ここ』に生きる絶好の機会があるし、夜眠りに就く瞬間(とき)にも、『今、ここ』に生きる絶好の機会がある。
そして、寝ても醒めても四六時中している息の中にも、『今、ここ』に生きる絶好の機会が散りばめられているのです。
結局の処、気づいていようが気づいていなかろうが、生きているということは、『今、ここ』を生きていることに外ならないのですが、わたしたちはそれを気づいておらずに生きているのです。
気づかずに生きていることが、意識が眠った状態、つまり「夢の中の眠り」の中にいることに外ならないのです。
夢の中でさえ、わたしたちは意識があります。
だから夢を観ていると言えるのです。
しかし、普段目が醒めた中でいろいろな活動をしているわたしたちは、眠りの中で観る夢よりも意識的でないのです。
眠りの中で観ている夢では少なくとも、『これが現実だ!』と意識しているのに、目が醒めている所謂現実の世界では、『これが現実だ!』と殆ど意識していないのです。
わたしたちが目が醒めている時に、『これが現実だ!』と意識しているのは、どういう瞬間(とき)でしょうか。
何か困難な状態に巻き込まれているまさにその瞬間しか、『これが現実だ!』と意識していないのです。
息が急に出来なくなったり、心臓が急におかしい動きになったり、要するに不測の事態になってはじめてわたしたちは、『これが現実だ!』と意識するのです。
身体が異常な状態になると自然治癒力が働くことは、わたしたち生き物はみんな知っています。
『今、ここ』にいることが、まさしく自然治癒力の為せる業であるのです。
『今、ここ』とは自然治癒力そのものであり、全知全能の神とも言えるし、天地創造主とも言えるでしょう。
そしてそれは息の合間にも、朝目が醒めた瞬間(とき)から、夜眠りに就く瞬間(とき)まで随所に在るわけですから、「神はすぐ傍」と言えるのです。