Chapter 332 真理はコイン

ドイツの物理学者ウェルナー・ハイゼンベルグによって不確定性原理が提唱されたのは1927年のことですから、もう80年近い歳月が経っています。
不確定性原理とは、粒子の位置と運動量(速度と考えてもいいでしょう)を同時に正確に測定し、決定する、即ち確定することはできないというのです。
位置とは静止した状態。
運動量(速度)とは動いている状態。
位置を決めようとすればその速度を計ることはできないし、速度を計ろうとすればその位置を決めることはできない。
つまり運動状態と静止状態を同時に確定できないと言っているのであります。
考えてみれば当たり前のことですが、よくよく考えてみればわたしたちが常識と思っていることが総てどんでん返しされるのです。
粒子の位置に焦点を絞るということはそのエネルギー量(質量)を計ることであり、運動量(速度)に焦点を絞るということは時間を計ることであると言ってもいいでしょう。
粒子をわたしたち人間に置き換えますと、現在のわたしの位置を決めようとすれば時間を止めないとできないし、時間を動かすとわたしの位置を決めることはできないということになり、これも当たり前のことです。
そうしますと、わたしとはまさしく現在のわたしであるのですから、わたしとは一体誰かと問うならば時間を止めるしかないし、時間が動いているならばわたしは一体誰かを知ることはできないということになります。
「現在のわたし」の現在とは、過去と未来の間にある現在ではなくて、『今、ここ』の『今』であり、「現在のわたし」の位置とは、『今、ここ』の『ここ』であることは言うまでもありません。
つまり、不確定性原理とは、本当の自分を知るには、『今、ここ』を生きるしかないと言っているのであって、そのためには時間を止めるしか方法はないのであって、時間を動かす限りつまり過去や未来に想いを馳せている限り、本当の自分を発見することはできないと言っているのであります。
従って、わたしたちの生きている宇宙は、運動している宇宙つまり時間が動いている−流れている−宇宙であるのですから、自分は無いとも言えるのです。
わたしたちにとって時間が流れているということは、生きているということですから、生きているということは自分がないということであります。
つまりわたしたちは全体の一部としての存在であって個別の自分なんて在り得ないということになります。
因果応報という仏教の言葉がありますが、そんなものは有り得ないのです。
原因があるから結果があるなんて、人間が勝手に創りあげた妄想に過ぎないのであります。
悪いことをすると罰を受ける。
善いことをすると褒美を受ける。
みんな人間が創った妄想であるのです。
人間の世界では人殺しは悪いことですが−しかし戦争で人殺しをすることは許されているようですし、毎日毎日わたしたちは他の生き物を食べるために殺していますが−動物の世界では殺すことは悪いこととなっていません。
こんな自己矛盾に満ちた生き物は他にはいません。
結局の処、わたしたちは、「自分が、自分が・・・」と言って生きているように思っていますが、そんな自分は何処にもいないのです。
本当の自分を知るには時間を止める、つまり、『今、ここ』にいるしか方法はないのであります。
運動の光と音(喧騒)の宇宙と、静止の暗闇と沈黙の宇宙とは、『今、ここ』という名前のコインの表裏であるとも言えるでしょう。
しかし、『今、ここ』という表札が掛っているのは、静止の暗闇と沈黙の側だけであることは言うまでもありません。
ところが、わたしたちは運動の光と音(喧騒)の側だけを見て生きているのであって、それでは自分など発見できるわけがないのです。
裏側も見ることです。
裏側を見ることこそ、夢の世界も人生と捉えることに外なりません。
表の世界ばかりに目を凝らすことに慣れてしまった、懲りないわたしたち人間であります。
表側も裏側も見ることで、真理は見えてくるのです。