Chapter 341 マーキングの効用

般若心経の冒頭に、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」というのがあります。
「五蘊」というのが、五感のことです。
つまりお釈迦さんが真理を会得するための修行(瞑想)をしていたら、突如わかったことがあった。
五感を一切断ち切れば、四苦八苦は皆悉く消えてしまった。
結局の処、五感が働いている限り苦悩は消えないというわけです。
「見ざる・言わざる・聞かざる」という諺は、同じことを教えています。
まさに人間は、視覚と聴覚の生き物である所以です。
「見ざる・言わざる・聞かざる・匂わざる・味わわざる・触らざる」とは言いません。
一方、わたしたちが生きている現代社会は情報化が進み、「見ざる・言わざる・聞かざる」がますます難しい世の中になっている。
地球上に63億の人間がいるのですが、情報化社会になって地球の大きさがスタジアム程度まで縮んでいるのですから、毎朝の通勤ラッシュの電車の混雑どころではないのです。
誰かに足を踏まれたといっては騒ぎ、誰かに痴漢にあったといっては喚く・・・・といった雑然とした、まさに運動の光と音(喧騒)の世界です。
そんな電車の中に、サリン事件ではないですが、怪し気な匂いが蔓延しだすと、それこそ喧騒状態は頂点に達するかもしれません。
もう車内は目茶苦茶。
もう地球は目茶苦茶。
現代社会はまさにこういった有様でしょうか。
お釈迦さんが言った、「五蘊皆空 」でもしない限り、63億総神経衰弱に陥ってしまいかねません。
しかし肉体を纏っているわたしたちが、「五蘊皆空 」状態にすることなど、およそ不可能です。
お釈迦さんは、28才で出家するまで人間が死ぬことを知らなかったそうです。
「天上天下唯我独尊!」と言って生まれたお釈迦さんは、生まれながらの皇太子であり父親の跡を継いで釈迦王国の国王になる運命を背負っていたのですが、祭司から、この子は死を知ったら最後、世間を捨てるだろうと言われた父親である国王は、徹底して死を知らしめることのないよう緘口令を国中に出したからです。
ある日、霊柩馬車が通って行くのを見かけたお釈迦さんが御者に訊ねた。
「何を運んでいるのか?」
御者は緘口令のことを知らなかった。
「死者を運んでいるんだ」
お釈迦さんが驚いて言った。
「人間は死ぬのか?」
御者は不思議そうな顔をしてたち去った。
こんな時代なら、「五蘊皆空 」も可能でしょうが、63億の人間が東京ドームに詰まっているような状況の地球です。
人間に限らず生き物はすべて、最低限の自己だけのスペースを必要とします。
自己だけのスペースを侵犯されたら気が狂うそうです。
犬が散歩で小便を掛けるというマーキングをするのは、自己のスペースの確保を示威している作業に外なりません。
地球が朝の通勤ラッシュ並みになった現代社会では、人間もマーキングでもしないと気がおかしくなる筈です。
「五蘊皆空 」ではなく、五感を鋭くすることによって自己の世界に浸ることが大切な現代社会なのです。
わたしは、自分の部屋をラベンダーのエッセンシャルオイルで、小便の代わりにマーキングして、毎朝執筆しています。
そのうち、匂う夢を経験するでしょう。