Chapter 344 『今、ここ』のジレンマ

わたしたちは、運動の光と音(喧騒)の世界に生きています。
つまり一切止まることのない、動き続けることを運命づけられているのが生きていることの証であるわけです。
現にわたしたちの肉体は一日24時間一年365日1秒たりとも止まることなく死ぬまで動き続けているのです。
しかもその運動は、まるで時計の振り子のように一方の端に行けば、必ず他方の端に行く往復運動を繰り返しているのです。
振り子の往復運動こそ、円回帰運動に外ならない。
逆に言えば、わたしたちの150億光年の拡がりを持つ宇宙が、運動の光と音(喧騒)の世界である所以はこの円回帰運動にあるわけですから、円回帰運動こそが、わたしたちの身体つまり肉体と精神を振り子の往復運動に導いているとも言えます。
円運動とは求心力と遠心力のバランスに依って為されるものですが、振り子の往復運動とは一方の端に向かうモーメントと他方の端に向かうモーメントに依って為されるわけです。
振り子時計でぜんまいのネジを巻く作業がモーメントという力をつくる作業なのですが、このぜんまいを巻く作業こそが、わたしたちが生きていることの証であるのです。
生きている限り、つまり生命エネルギーが枯渇しない限り、生命エネルギーが振り子を止まることなく往復運動を続けさせてくれるモーメントの役割を果たしてくれているのです。
従って、わたしたちが生きている限り、振り子時計の振り子は止まることはないのです。
振り子が真中に止まるのは、わたしたちが死んだときです。
四苦八苦の一切ない安心立命の悟りの境地を渇望して止まないわたしたちですが、生きている限りは不可能な理由がここにあります。
生きている限り、悟りの境地など有り得ないのです。
有り得ない悟りの境地は、まるで幻想の蜃気楼のようなものです。
近づいても近づいても到達することのない蜃気楼が、まさに悟りの境地だと言っていいでしょう。
しかし蜃気楼のある砂漠で立ち止まったら最後、そこでわたしたちは死んでしまいます。
到達することのない蜃気楼であっても、いつか到達するであろうと希望を持って歩き続けるしかないのです。
もうこれ以上歩くことができない処まで歩き続ける。
生命エネルギーが枯渇するまで歩き続ける。
そして目指す蜃気楼に到達することなく、砂漠の中で遂に倒れる。
すると突然、渇望していた蜃気楼が眼前に現れる。
つまり、死ぬまで振り子は止まらないが、死ねば否応なしに止まるわけで、振り子が止まった処が、蜃気楼という悟りの境地であるのです。
従って、生きている限り必ず死ぬわたしたちは、必ず死ぬことを以って悟りの境地に到達することが約束されているのです。
だからと言って安心してはいけません。
生きている限りは、わたしたちは砂漠の中を歩き続けなければならないのです。
生きながらにして砂漠の中で立ち止まると、灼熱の生き地獄が待っています。
死ぬことによって砂漠の中で止まると、蜃気楼のオアシスが現れるのです。
わたしたちは現に生きているのです。
生きているなら歩き続けるしかないのです。
歩き続けるには、たとえ蜃気楼であっても希望を持って歩き続ける方が楽な気分で歩くことができるし、しっかりと歩くことができます。
先ず蜃気楼であっても夢や希望を持って歩くこと。
次に足下だけをしっかり見つめて歩くこと。
歩いて来た道を振り返ったり、これから歩く先の道を見ると、まるで深淵の谷の上に張られている一本の綱のようで、めまいがするから決して足下から視線を外さないことが肝要です。
つまり、
死ぬまで得られぬ悟りの境地ですが、いつか時季は知らないが、必ずやって来る死ぬときまで生き続けるには、足下つまり、『今、ここ』をしっかりと見つめて歩き続けるしかないのです。
『今、ここ』を止まることができないジレンマこそ、『今、ここ』を見つめて歩き続ける力−振り子のモーメント−の源泉であるのです。
到達することのないゴールに向かって少しでも近づくべく歩くことこそ、生きていることの証であるのです。
そしてその瞬間(とき)、あれほど怖れていた死が微笑んでくれるのです。