Chapter 345 知ることが誤りのはじまり

日本のスーパーカミオカンデで、宇宙に遍在する超微粒子ニュートリノの重さを計ることに成功した結果、開かれた宇宙−膨張し続ける宇宙のこと−からいつか閉じた宇宙−収縮し続ける宇宙−に反転することがわかりました。
理論的にはそうであろうと言われていましたが、実証することができなかったのを、ニュートリノの重さを計ることに成功した結果実証されたわけです。
つまり、わたしたちの宇宙は運動の光と音(喧騒)の世界で、円回帰運動と線的往復運動を繰り返す世界であるのです。
一方、アインシュタインは宇宙を静止モデルと捉えていました。
つまり静止の暗闇と沈黙の世界であるわけです。
ハイゼンベルグの不確定性原理と、ハッブルによる宇宙膨張の発見によって、わたしたちの宇宙が静止モデルではないことを後に認めることになるのですが、それはわたしたちの宇宙の話だけで、それ以外の宇宙も在り得ることの反証にはなっていないのです。
つまり宇宙の果てはあるのか、それとも無いのか。
果てがあるなら、そこが宇宙の終わりつまり端になるわけですが、この端とは特異点のことで、その名が示す通り特異つまり物理法則が通用しない点ですから、普遍的な法則というものはありえないことになります。
一方、果てがないなら、宇宙の端である特異点がないわけですから、宇宙すべてに物理法則が通用することになるわけで、普遍的な法則が厳然と存在することになります。
宇宙の果てはないという考え方は、無境界仮説と呼ばれていて、逆に言えば普遍的な法則があるわけですから、すべて予言できることになります。
宇宙の果てがあるなら、逆に言えば普遍的な法則がないわけですから、すべて予言できないことになります。
物理学者や天文学者たちは、そこで二元論に嵌りこんでいるように思えてなりません。
宇宙の果てはあるのか、宇宙の果てはないのか。
果てがあるなら、果てのないのはない。
果てがないなら、果てのあるのはない。
つまり二律背反関係に置いているわけです。
本来、果てという概念すらなかった筈であり、それが一元論的であり、人間以外の生き物はまさに一元論的に生きておるのです。
彼らに果ての概念はないのです。
ところが人間だけに考える能力が具わったために、ある者はこれがよいと考え、また別の者はこれがよくないと考える結果、よいことと、よくないこと(わるいこと)の相反する二つの考え方をつくってしまった。
それが二元論に嵌りこんだ原因であるのです。
考えごとをすればするほど、二元論に嵌りこむ。
つまり果てのない鼬ごっこに嵌りこむのです。
果てのある宇宙もある。
果てのない宇宙もある。
従って、予言でき得ることもあるし、予言でき得ないこともある。
予言できたからと言ってもよいこともあれば、よくないこともある。
それは考えごとをする人間によってみんな違うわけです。
それをどちらかに決めつけようとするから、鼬ごっこになり、蟻地獄に嵌りこむのです。
オーストリア生まれのイギリス人哲学者カール・ポッパーが言ったように、“観測(予言)によって誤りが立証できる”程度が人間であることを知るべきなのでしょう。
わたしたちの知性レベルは、所詮知ることで誤りがわかる程度であるのです。
知ったと思ったときが、誤りのはじまりであることを忘れてはなりません。
老子が言った言葉。
“真理は言葉で表わせない。言葉で表わせたら真理でなくなる”
そういうことなのでしょう。