Chapter 346 ふたつの流れ

真理とはすべて逆説的な中に潜んでいると言えるでしょう。
しかし、わたしたちは表面的には常に一貫性を支持しています。
この矛盾・葛藤・相克がすべての悩みの原因であるのです。
道徳観・倫理観などはまさに自己の内面に潜んでいる矛盾・葛藤・相克に対する懺悔に外ならないと言えるでしょう。
キリスト教が極めて偽善的宗教になった理由は、本来性として具えている一貫性の無さが真理であるのに、それを無理やり一貫性を持たせようとするのですから、偽善的にならざるを得ないわけです。
その根本原因は旧約聖書の戒めにあるのです。
従って、旧約聖書をバイブル(聖典)としている宗教、即ちユダヤ教・キリスト教・イスラム教は偽善的にならざるを得ない宗教と言っても過言ではありません。
だから聖戦と言って厚顔無恥にも殺し合いをするわけです。
十戒とは、
(1)神は主なるわたしをおいて他にいてはならない
(2)あなたは、いかなる偶像崇拝もしてはならない
(3)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない
(4)あなたは六日働いて七日目は安息日として休まなければならない
(5)あなたの父を敬いなさい
(6)あなたは殺してはならない
(7)あなたは姦淫してはならない
(8)あなたは盗んではならない
(9)あなたは隣人に関して偽証してはならない
(10)あなたは隣人の所有するものを欲してはならない

この十の戒めを守るだけでも、すべての生き物のみならず、わたしたち人間も心身障害に陥ってしまうでしょう。
更に何百という戒めが旧約聖書には述べられていて、その中には奴隷の扱い方まで指示してあるのですから、旧約聖書をバイブルにしている人たちにとって、人種差別など当然のことだと思っているわけです。
だから十戒で殺してはならないと言われていても、聖戦と言って平気で殺し合いをする。
それが偽善のはじまりであるわけです。
殺したいという衝動がおこるのは、セックスをしたいという衝動がおこるのと、根元は同じであることを、彼らは理解していない、理解しようとしないのです。
だから宗教は殆どと言っていいほど禁欲主義にならざるを得ないのです。
何故なら、わたしたちが生きている宇宙は運動の光と音(喧騒)の世界であるからです。
円回帰運動と振り子の線的往復運動を繰り返している世界に生きているからと言ってもいいでしょう。
振り子の本体が右の端に向かったら振り子のモーメントは既に左に向かい、振り子の本体が左の端に向かったら振り子のモーメントは既に右に向かっていることで振り子運動を続けることができるのです。
平たく言えば、自分の人生が幸福の方向に向かっているなら、水面下では不幸の流れに既に変わってしまっているし、不幸の方向に向かっているなら、水面下では幸福の流れに既に変わってしまっているのです。
ところが、わたしたちは幸福の中にいると、ずっとそのまま止まっていたいと思う。
それが無理やりの一貫性であるわけです。
川の流れの本流は水面下の流れであることを見逃してはなりません。
海の流れの本流は水面下の流れであることを見逃してはなりません。
顕在意識で思っていることは実現しなくて、潜在意識で思っていることがすべて実現するのも、本流は潜在意識にあることを物語っています。
知識で体を動かすことはできませんが、体験で体を動かすことができるのも、知識が顕在意識から発動されるのに対して、体験は潜在意識から発動されるからに外なりません。
自転車を乗りこなしたり、自動車の運転に慣れるのは、自動車学校で知識を習得したからではなくて、実践の道路で運転していく体験によってであることを、わたしたちはみんな承知しています。
ところが、わたしたちは飽くまで表面的即ち水面の流れに流されて生きています。
偽善的になるのは当然であり、その結果心身障害に陥るのは自然の摂理の帰結であるのです。
人間社会では、それを建前と言っておるのです。
わたしたちも他の生き物と同じですから、本音は水面下の流れであることをわかっておるのです。
悩みの原因は、嫌な事柄が起こっているからではないのです。
嫌な事柄は飽くまで水面上の流れであって、水面下の流れは既に反対の方向に向かっているのですが、この本音と建前の二本立てが悩みの原因であることを理解していないのです。
汽車に乗っている大人は、汽車の揺れで疲れますが、子供はまったく疲れません。
子供は揺れに逆らわずにいますが、大人は揺れに逆らっているからです。
揺れに逆らうことが道徳であり、戒めを守ることだからです。
子供や他の生き物は、道徳や戒めのことを知らないから、揺れに身を任せるのです。
つまり本音だけで生きているのです。
だから悩みがないのです。
振り子の本体の動きという建前と、振り子のモーメントの動きという本音をよく理解することです。
つまり、所謂現実が右に向かっているときは、想いは左に向かい、所謂現実が左に向かっているときは、想いは右に向かうのです。
その想いというモーメントこそが、所謂現実の世界に対して、夢の世界であり、寝ても醒めても、このふたつの流れが常に存在しているのが、わたしたち運動の光と音(喧騒)の宇宙に生きているものの宿命であるのです。
あなたは、どちらの流れに意識を置いて生きていますか。
どちらにしても、ふたつの流れがあることだけは承知しておくことです。