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Chapter 405 一環した人生 全体即ち宇宙と繋がっている肉体と意識は、宇宙が休むことなく運動しているように、一切休むことなく動き続けています。 それが本来の自己であるのです。 つまり名無しの権兵衛が本来の自己であります。 一方、肉体の感覚器官としての五感は、テレビのアンテナのような役割を果たすもので、自他の区別をするアンテナなのです。 静止の暗闇と沈黙の宇宙では、すべてのものは結晶化された一様な状態になっている、つまり唯一の波長と周期の波動エネルギーであるのに対し、運動の光と音(喧騒)の宇宙では、すべてのものは非結晶化された多様な状態になった無限の種類の波長と周期の波動エネルギーで構成されているのです。 わたしたちひとりひとりも、その中のひとつの固有の波動エネルギーであるわけで、固有性を認識するためには、固有の波動エネルギーを自覚する必要つまり知る必要があります。 その役目を果たしているのが五感であるわけです。 「想い」も同じで、静止の暗闇と沈黙の宇宙では、意識も一様の波動エネルギーなのですが、運動の光と音(喧騒)の宇宙では無数の波動エネルギーが混在して全体を構成している。 そのひとつひとつの意識を受信・認識するのが、「想い」であるわけです。 従って、静止の暗闇と沈黙の宇宙では、すべてが一様ですから、肉体と五感、意識と「想い」の区分けは無いのですが、運動の光と音(喧騒)の宇宙では、全体と部分という区分けが必要となり、肉体に対しては五感、意識に対しては「想い」が誕生したと言えるでしょう。 すべてのものが動く故の結果であると言えます。 熱力学の第二法則である、すべてのものは秩序ある状態から無秩序の状態に変化して行くことの証でもあると言えます。 ジグソーパズルが完成された状態は唯一種類のもので、それが静止の暗闇と沈黙の絶対宇宙であるのに対し、ジグソーパズルが時間と共にバラバラになって行く様が、わたしたちの運動の光と音(喧騒)の宇宙であると言えます。 従って、肉体が年中無休であるのですから五感も年中無休であるのが運動の光と音(喧騒)の宇宙にいる限りの法則であり、意識が年中無休であるのですから「想い」も年中無休であるのが、運動の光と音(喧騒)の宇宙にいる限りの法則であります。 静止の暗闇と沈黙の宇宙に行かない限り、つまり死なない限りはどこまでも動き続けるのが、わたしたちの使命であります。 覚醒が動であって、睡眠が静ではないのです。 覚醒も睡眠も動の一環であるのです。 3分の2の人生と、3分の1の人生があるのではない。 一環(一貫は狭義)の人生であるのです。 生きているから生きているのであり、死ぬから死ぬのであります。 その間にあるのは、深淵(Abyss)という断崖絶壁であるのです。 生から死への工程は、深淵をジャンプする旅であって、清水の舞台から飛び下りることに外ならないのであります。 普段の人生で、いくら清水の舞台から飛び下りることを避けてきたわたしたちであっても、最後には全員飛び下りなければならないのです。 普段から飛び下りる習慣を持っている人は、死に際して慌てることはないでしょう。 普段から飛び下りる習慣を持っていない人は、死に際して慌てふためくことになるのです。 それが地獄と言えるのではないでしょうか。 普段の人生でいくら嫌なことがあっても、それは生ある中での出来事ですから、必ず動くつまり変わるわけですから、そんなことはひとひら(一瞬)の出来事であり地獄ではありません。 運動の最後の時点、つまり死に際して慌てふためくことこそ、変化のない地獄であるのです。 |