Chapter 411 知っていることは知らないこと

夢物語とは、一体どんな物語でしょうか。
現実物語とは、一体どんな物語でしょうか。
本当の自分である、「わたし」が鑑賞する自分独りだけの劇場の舞台。
その舞台の背景画面として映写される無制限連続バラバラ一本立て映画が夢物語だと、以前申しました。
背景画面を、舞台装置のひとつとして使った、4階の席からしか見えない実舞台で繰り広げられているのが現実物語だとも申しました。
わたしたちが昼間目が醒めている所謂現実の世界というのは、4階の席から見える実舞台ではなくて、背景画面に出演もしていない自分、つまり「私」が恰も出演しているかの如く勘違いしている背景画面のことです。
わたしたちが、テレビや映画を観て一喜一憂している様が、まさにそうでしょう。
テレビや映画に出演している人なら、録画画面を観て一喜一憂などしない筈です。
また生放送の画面なら、鑑賞席に居られる筈がありません。
つまり一喜一憂すること自体が、出演していない証であるのです。
夢物語の本質がこの点にあることを忘れてはなりません。
鑑賞者と出演者の二役をこなすことができないのです。
所謂現実物語というのは、まさしく自分が出演していないのに、恰も出演しているかの如く勘違いしているから所謂現実であって、一喜一憂するわけです。
現実物語というのは、現実に自分が出演している実舞台での生(アドリブ)の物語ですから、記憶を再生して観る一喜一憂の鑑賞者の席に座ることはできないのです。
つまり現実とは鑑賞できない世界であり、そこに在る世界だと言えるでしょう。
4階の席から、実舞台を見ているのだけれども、それは鑑賞者としてではなくて、演出者として見ているのであって、更に演技者として実舞台にも立っているのが現実物語であるのです。
自分が出演している舞台と、自分が出演していない背景画面。
背景画面は録画つまり記憶の再生ですが、自分が出演している舞台は生放送です。
夢物語や所謂現実物語は過去の記憶を再生した録画画面しかも自分が出演していない、無制限連続バラバラ一本立て映画であるのに対し、現実物語は自分が出演している生放送の、『今、ここ』しかない実舞台であり、自分は演技と演出はできるけれども、鑑賞はできない物語なのです。
夢と現実とを区分けしたいわたしたちですが、それは水平的広がりの世界での区分けであって、水平的平面の世界の中では、現実物語、夢物語、所謂現実物語は、みんな径の違う同心円であるので区分けはできないのです。
一番外側で膨張し続ける大きな円が現実物語であり、その内側にあるのが夢物語であり、一番内側で収縮しようとするのだけれども、その外側にある夢物語と現実物語の円に引っ張られてうろうろしている円が所謂現実物語であるのです。
まさに無制限連続バラバラ一本立て映画であるわけです。
しかし、わたしたちはそんな物語を、理屈に合った物語だと勘違いして生きており、一方そんな物語よりずっと理屈に合った夢物語を、訳のわからない物語だと決め込んで生きているのです。
自分の知らないことは理屈の合わないことだと決め込む悪い癖を、わたしたちは持っているようですが、それは逆で、自分の知っていることが理屈に合わないことであって、更に新しいことを知ってはじめて、今まで知っていたことが、実は理屈に合わないことがわかるのです。
知っていることは、知らないことの証明です。
所謂現実物語、夢物語、現実物語は、その相対性を示唆しているのであって、それこそ般若心経の、「色即是空、空即是色」の世界であるのです。
「羯諦」とは、そんな水平的広がりの世界観から、垂直的世界観へジャンプせよと言っているのです。
まさに実時間から虚時間の世界への変身であるのです。
この簡単な真理を理解しない限り、悩みから脱出することはできません。