Chapter 415 悟りを目指す人生観

わたしたちの本来性とは完全な生き方であります。
完全な生き方とは、宇宙と一体になった生き方、つまり宇宙の「普段の運動」に合わせた生き方であるのですから、年中無休であり、現にわたしたちの身体の大半は年中無休の「普段の運動」をしているのです。
悟りの状態とは、完全な生き方を指しているわけであって、肉体と意識の完全な状態を言うのです。
一般には、悟りとは、肉体よりも意識の完全な状態を指しているように思われ勝ちですが、健全な肉体に健全な精神が宿るのが、やはり真理であります。
従って、わたしたちが病気をしたり、悩んだりするのは、完全な生き方をしていないからであり、悟っていない証拠と言えるでしょう。
わたしたちは誰でも、病気になったり、悩んだりすることは嫌だと思っています。
しかし、悟りを開きたいとか、完全な生き方をしたいとか、宇宙と一体になった生き方をしたいとか、思っている人は極めて少ないと言えるでしょう。
これこそ自己矛盾の極みであります。
悟りを開いていないから、病気になり、悩むのです。
完全な生き方をしていないから、病気になり、悩むのです。
宇宙と一体になった生き方をしていないから、病気になり、悩むのです。
悟りを開くことなど毛頭考えていないのに、病気や悩みを逃れるために、神社仏閣に拝みに行っておるのです。
まさに精神分裂も甚だしい。
唯心的とは、魂や霊の存在を信じ、魂や霊は肉体と違って不滅のものであるという考え方であり、唯物的とは、魂や霊の存在を否定し、ただ肉体だけがあって、肉体が死ねば、それですべてはお終いという考え方であるのが一般的です。
「夢の中の眠り」(VOL I)Chapter399「眠りの概念を変える」でお話しました。
“肉体を以って自分と思う唯物的発想とは、まさしく、自己の存在の証である五感がNon−Rem熟睡時を除いて醒めているのに対し、自己の存在の認識である「想い」がRem睡眠時の夢を観ている間だけしか醒めていない点にあったのです。
本来の唯物的とは、自己の存在を証明することであって、それに対し唯心的とは、自己の存在を認識することであるわけで、二律背反するものではないのです。
自己の存在を証明しても、認識できなければ、自己を知ったことにはなりません。”
唯物的とは、前述したように、病気や悩みは嫌だと思っているのに、悟りを開きたいとか、完全な生き方をしたいとか、宇宙と一体になった生き方をしたいとも思っていない自己矛盾の極みの人たちを指すのです。
そういう意味では、わたしたちの大半は唯物的であると言わざるを得ません。
宗教を軽蔑したり、信仰心を持っている人を馬鹿にする人間でも、病気や悩みは嫌な筈です。
宗教に傾倒したり、信仰心に厚い人でも、病気や悩みは嫌な筈です。
生老病死や愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦という四苦八苦のない人生を送ることが、唯物的考え方の者であろうが、唯心的考え方の者であろうが、人間共通の、生きている最大のテーマであります。
四苦八苦の原因が、悟りを開きたいとか、完全な生き方をしたいとか、宇宙と一体になった生き方をしたいとか、思わない自己矛盾にあることに先ず気づかなければ、どんな努力をしても無意味であります。
睡眠を採ることを止めなさいとは申しません。
睡眠を採ることは本来の生き方ではないということを理解するべきだと言っているのです。
悟りを開くことは一生できないでしょう。
つまり睡眠を採らずに生きることは無理でしょう。
しかし、睡眠を採る生き方は不完全なわたしたち故の生き方であると自覚することが、これからの生き方に大きく影響することは確かだと思うのです。
何故なら、不完全な生き方をしているから、わたしたちは病気になったり悩んだりする、四苦八苦の人生を送っているのですから。
宇宙は今、膨張の過程を歩んでいます。
だから過去から未来への心理的な時間の矢の流れであり、秩序から無秩序の時間の矢の流れになっています。
本来完全な状態が、時間の流れに従って、不完全な状態に変位している。
それなら、宇宙が収縮する過程に転じたら、未来から過去の流れになる、不完全な状態から完全な状態に変位する筈です。
しかし、そのときには、人類は存在し得ていないだろうと、物理学者は言っています。
それなら、わたしたち人間は、サルトルが「他人は地獄」と言った世界に生きており、地獄から脱するには、人類すべてが悟らなければならない筈です。
すべてとは無であります。
絶滅することでしか、人類は悟ることができない、つまり病気や悩みから解放されることはないということになります。
「他人は地獄」は、そういう意味では、真理のように思えるのですが。