Chapter 418 これもまた過ぎ去る

「他人は地獄」とフランスの哲学者サルトルは言いました。
「神は死んだ」とドイツの哲学者ニーチェは言いました。
自分と他人の問題から生じる軋轢・相克が人間の不幸の原因であると、彼らは言いたかったのでしょうか。
軋轢とは、他人との五感レベルつまり肉体レベルにおける食い違いであり、相克とは、他人との第六感レベルつまり意識レベルにおける食い違いのことを言います。
従って厳密には、軋轢とは存在の証明における他人との違い、相克とは存在の認識における他人との違いを意味しています。
自分独りだけが存在している世界に生きていることを、逆説的に表現している言葉であります。
他人は所詮映像という実体のないもの、つまり存在しないものであることを、随時・随所で示唆しているのが、他人との間で生じる軋轢・相克であるわけで、サルトルはそれを「他人は地獄」と表現し、ニーチェは「神は死んだ」と表現したのでしょう。
神とは、所詮存在しない他人と同じような、いい加減なものであるのに、そんな他人や神に惑わされて生きているのが人間だと言うわけです。
古代・中世では神が人間の上に君臨し、近代・現代では他人が目の上の瘤になって、肉体のみならず意識においても癌を齎してきたのであります。
癌という病気は、肉体だけのものではありません。
その根源は、自他を同一の世界観の中で捉えてきたことにあったのです。
ちょっと考えてみればわかることなのですが、自分の存在は、寝ても起きても、眠っても醒めても、随時随所で、常に『今、ここ』に存在(自在)していますが、他人−他の物も含めて−の存在は寝ても起きても、眠っても醒めても、随時随所で、過去若しくは未来に映し出されているもので、常に「これもまた過ぎ去る」即ち変幻し続けています。
わたしたちの人生における喜怒哀楽は、常に「これもまた過ぎ去る」変幻し続ける他人と、その中で自在である自分との軋轢・相克に外ならないのであります。
近代・現代に次ぐ新しい時代では、社会という概念はなくなり、個人の世界観が基本になるでしょう。
個人の世界観と、利己的な世界観とは正反対であることは言うまでもありません。
「利他即利自」は所詮二元論的世界観であり、「天上天下唯我独尊」が三元論的世界観であります。
拙著、「ある逸話」−3 を最後に紹介しておきます。

ある逸話−3

天下を取った太閤秀吉の権勢は壮大無辺であった

さすがの千利休も家来でしかなかった

しかしながら或る日のこと

秀吉は心配になって利休を呼んで言った

何故か解らぬが、余は或る茶器に心奪われておる

その茶器は心安らかに定める茶器じゃ 余はそれを欲しい

利休は聞いた いかなる茶器ですか

秀吉曰く その茶器は、

余が心晴れぬ時には悦びを与え 悦びにある時には悲しませるものだ

利休は一旦下がった

翌日 利休は望みの茶器を持参した

その茶器にはかく銘が彫られてあった

「これもまた過ぎ去る」

豊臣釈猿才秀吉入滅の際の一句

露とおち 露と消えにし 我が身かな 

浪花の事も 夢の又夢

これも又過ぎ去る