Chapter 427 想いの重さ

わたしたちの肉体が健康であるかどうかのバロメーターが体重にあるのに対し、健康な精神のバロメーターは、「想い」の重さが適正であるかどうかに掛かっています。
「想い」の重さとはどういうことなのか。
適正な重さとはどういうことなのか。
「想い」の重さとは、「想い」という波動エネルギーが使用不可能なエントロピーになっているかどうかという意味であります。
逆に言えば、使用可能なエネルギーと使用済みの結果使用不可能になったエネルギー(エントロピー)とが相殺し合っていて、「想い」の波動エネルギーが使用可能なエネルギーとなっているものは重さを持たないけれど、エントロピーになったら重さを持つ、しかしエネルギーとしての総量は不変である、つまり熱力学の法則が働いていると言えるでしょう。
「想い」が使用可能なエネルギーだけで構成されていたら、重さを持たない。
つまり、お釈迦さんが言った「空」や「無」の状態と同じで、わたくしが拙著「心の旅の案内書」で「台風の目」と言い、「夢の中の眠り」で『今、ここ』と言った状態であります。
しかし、人間はこの世に身体を持って生まれてきた限りは、死ぬまでこの身体を引き摺って生きて行かなければなりません。
食物を食べたら栄養を吸収するだけではなくて、排泄もしなければなりません。
排泄物がエントロピーだと考えたらわかりやすいかも知れません。
食物が栄養分として吸収されると、生きる上のエネルギー(生命エネルギー)は活動エネルギーと変位するつまり重さを持たないが、過剰な分は肝臓にぶどう糖として蓄積され、更にもっと蓄積されると、肝臓でも蓄積し切れなくなって、脂肪となり過剰な体重つまり肥満体となって病気になります。
従って、排泄物もエントロピーですが、過剰な栄養分も有害なエントロピーだと言えます。
食べたものが、すべて活動エネルギーになったら、体重は変化しません。
しかし、人間の身体は完全ではありませんから、どうしても排泄しなければならないものもある。
栄養分が活動エネルギーになり、それ以外は排泄物になり、電気をアースするのと同じように、敢えて漏れさせることによって、わたしたち肉体を持つものは生きている。
この循環は完全ではないけれど、肉体を以って生きる上ではベストだと言えるでしょう。
問題は過剰な栄養分を肝臓に蓄積し、更に脂肪にすることで体重が増える点にあるのです。
しかし、子供のように、過剰な栄養分が血となり肉とならなければならない成長時期もある。
子供は実に多くのエントロピーを抱えて生きている動物だと言えるのです。
そのアンバランスさが随所で顕れている。
従って、バランスを保つ教育つまり躾が必要なのです。
排泄物としてのエントロピーは害は無いが、脂肪になったエントロピーは害がある。
「想い」も活動エネルギーとして消化・燃焼されていれば、重さを持たないのですが、蓄積されて脂肪となったら重さを持つ。
では脂肪となって重さを持つに至る「想い」とはどんなものでしょうか。
また活動エネルギーとなって消化・燃焼される「想い」とはどんなものでしょうか。
過剰な栄養分は肝臓に一旦蓄積されてぶどう糖になります。
ぶどう糖として肝臓に蓄積されている間は、緊急用の備蓄として役割を持っているからエントロピーにはなっていませんが、それ以上に蓄積されていくと、脂肪になります。
つまり両刃の剣の要素を持っていることも認識しておくことが大事です。
蓄積された「想い」とは記憶のことです。
記憶が活動エネルギーとして消化・燃焼されていれば、重さを持たない。
つまり「普段の運動」にだけ使用されているわけです。
それ以上に記憶を蓄積すると、ある程度の量は備蓄用として有用です。
つまり知識もある程度は必要ですが、それは飽くまで活動エネルギーのための備蓄であって、知識が見識になり胆識となってはじめて活動エネルギーとしての備蓄になる。
しかし知識ばかりを蓄積していき、活動エネルギーに消化・燃焼していかなければ、それは「想い」の重さを増す脂肪にしか過ぎないのです。
知識は重要だが、その後に経験という消化・燃焼という過程がなければ、知識は両刃の剣になる危険性も持っているのです。
学問をしない人間が、学問をする人間を、心の底で軽蔑している想いがあるのも、直感的に両刃の剣であることを察知しているからでしょう。
しかし学問をしない限り、その登龍門を通過することはできないことを知るべきです。
記憶を消化・燃焼できる程度の適度な食べものにすることが「想い」の適正な重さを維持することになるのです。