Chapter 430 問答無用の継続性

『今、ここ』を生きていれば、記憶の蓄積もされません。
記憶が蓄積されるのは、過去と未来という時間を目次の頁番号として出来事に名札をつける行為に外なりません。
従って、時間という頁番号がつけられない、『今、ここ』は記憶として残らないのです。
本には目次というものがあり頁番号がつけられています。
本の内容をすべて憶えていれば本を持つ必要はありません。
しかも本の内容を必要とする場合が随時あるものです。
内容を代表する名札つまり目次をつけておいて目次だけを憶えておけば、随時必要な際に内容を思い出すことができるわけです。
わたしたち人間の記憶も本と同じメカニズムになっていると考えたらいいでしょう。
頁番号が時間であり、目次が出来事の名札であります。
いくら名札を憶えていても、頁番号がなければ、必要な内容の頁をすぐ開けることはできません。
記憶力のいい人とは、頁番号をきっちり憶える能力のある人のことを言うのです。
つまり時間の観念が強い人のことであります。
拙著「神はすぐ傍」(Part I)Chapter8及びChapter9で時間の観念を持っている人間と持っていない人間のことを書きました。
人と約束した時間を守ることができる人とできない人が、人間にはあります。
これは生まれつきの体質であるようです。
人との約束時間を守る人が時間の観念を持っている人ですが、時間の整理がきっちりされている、つまり出来事の目次に時間という頁番号をつけて憶えているから約束の時間を守ることが出来るのです。
人との約束時間を平気で破る人が時間の観念を持っていない人ですが、時間の整理がきっちりされていない、つまり出来事の目次に時間という頁番号をつけて憶えていないから約束の時間を守ることが出来ないのです。
そうしますと、時間の観念があるかないかの原因には、先天的な面と後天的な面のふたつがあることがわかってきます。
記憶力の程度の差も、先天的な面と後天的な面のふたつがあるということになります。
先天的な面はどうしようもありません、つまり目次の名札と頁番号を憶える能力のことを指しているわけですが、目次の名札と頁番号を憶えていれば、すぐにその頁を開けることができます。
問題は後天的な面です。
本が大事だという認識がなければ本を持とうという意識がないのは当然です。
更に、本が大事だと認識していて、本を所有していても、倉庫で埃まみれになっていれば、本を持っている意味はありません。
本の大事さを認識していて常に自分の傍に置いていても、出来事の目次の名札を憶えていなければ、頁番号を知ることはできません。
つまり頁番号という約束の時間を守るということは、
・ 本を所有する意思がある
・ 本を常に開ける意思がある
・ 目次という名札を憶える意思がある
という三つの意思がなければ、時間を憶えることは出来ないのです。
この意思があるかないかは、後天的な問題であります。
イエス・キリストが、“真理は求める人の前に顕れ、求めない人の前には決して顕れない”と言いました。
意思がある無いの違いは、求める人と求めない人の違いであると言っていいでしょう。
それでは求める人と求めない人の違いはあるのでしょうか。
わたしたち人間は常に求めて生きているのですが、真理は選好みできません。
問題は選好みすることにあります。
約束の時間を守る人は選好みをしない人です。
約束の時間を守らない人は選好みをしている人です。
結局の処、自分にとって常に都合の好いことばかりを求めておるわけです。
しかし、真理は常に自分にとって都合のいいことばかりだとは限りません。
功利的に生きる人たちは、真理とは何かを理解していない、一見賢く見えるが、実は一番愚かな人種だと言えるでしょう。
本当に賢い人は、真理とは何かを理解し、真理の基本には問答無用の継続性が潜んでいることを知っているのです。