Chapter 433 想うことと慮ること

わたしたちは生かされているとよく言います。
誰によって生かされているのでしょうか。
神によって生かされているとでも言うのでしょうか。
宇宙によって生かされているのでしょうか。
太陽によって生かされているのでしょうか。
地球によって生かされているのでしょうか。
地球がなければ、わたしたちは生きてはゆけません。
太陽の光や熱がなければ、わたしたちは生きてはゆけません。
だからと言って、太陽や地球によって生かされていると言うのでしょうか。
全体と部分という観点では、わたしたちは地球の一部分であることは確かです。
しかし地球も太陽の一部分でもあり、太陽も銀河星雲の一部分であり、銀河星雲も150億光年の拡がりを持つ、運動の光と音(喧騒)の全体宇宙の一部分であり、運動の光と音(喧騒)の全体宇宙も静止の暗闇と沈黙の絶対宇宙の一部分であり・・・果ての果ての・・・一部分であります。
従って、太陽や地球が、わたしたちを生かしてくれていると考えるのは、如何なものかと思うのであります。
太陽や地球からすれば、わたしたちの存在などまるで意識していないのが実態ではないでしょうか。
肉体を持ち、動くものであれば、必ず意識がある。
肉体と意識は、運動するという条件下でのコインの裏表(二元)の存在であります。
人間や他の動物の世界では、五感と「想い」ということになるわけですが、太陽にも地球にも、星という肉体がある限り「想い」がある。
太陽や地球に「想い」があるからと言って、彼らがわたしたち人間に「想い」を寄せてくれているでしょうか。
神の存在性の原点がここにあります。
キリスト教では、神は「父なる神」と称せられていて、わたしたち人間は「神の子」と言われています。
つまり親子関係にあるというわけです。
地球とわたしたち人間とは、確かに親子に似た関係であるとも言えます。
そういう観点からすれば、親は子を想い、子を生かせるために必死になる様は、子からすれば生かされていると思えるでしょう。
しかし、地球がわたしたち人間を子と思って必死に生かそうとしているようには、とても思えません。
地球は地球の「想い」のままに生きているようにしか思えない。
自分の「想い」のままに生きているだけで、全体から生み落とした部分を生かしている結果になっているだけであるように思えてなりません。
そうすると、わたしたち人間の親子関係においても、同じことが言えるのではないでしょうか。
親は子供のためには自己犠牲も厭わない。
果たしてこれは真実でしょうか。
自己の「想い」に反することは決してできないのが、「想い」あるものにとっての絶対的な法則であります。
自己を第一に想うことが絶対条件です。
子供といえども、親といえども、自己ではなくて他者であります。
他者の「想い」は自己の「想い」ではありません。
つまり子供や親と言っても、所詮他人であります。
その他人に対して、自己の「想い」を本当に犠牲にすることが出来るでしょうか。
結局の処、自己を大事にする隠れ蓑として他者を大事にしているだけのことであり、親子関係ということが大義名分になっているだけのことであります。
他者を愛することは素晴らしいことです。
しかし、その前提条件は、先ず自分を愛することができていることです。
自分を愛することができない人間に、他者を愛することなどできよう筈がありません。
他者のために自己犠牲をするなど、自己欺瞞の典型であると言っても過言ではありません。
それよりも、自分のために生きることです。
利己的に生きるという意味ではないことは言うまでもありません。
自分のために生きているかどうかを自己に確かめてみることです。
わたしたち人間の殆どは、自分のために生き切っていない隠れ蓑として、他者のことを慮って生きている振りをしているだけであります。
想うことができるのは自己のことだけであります。
他者のことを想うことは出来ないのであります。
他者のことは慮るのが精一杯であり、その対象が子であり、親であるのです。
先ず、自分を想うことが先決問題であります。