Chapter 435 自己と他者

人は自分の幸福には敏感でありますが、他人の幸福には鈍感であります。
人は自分の不幸には敏感でありますが、他人の不幸には鈍感であります。
敏感であるということは、醒めているということに外なりません。
鈍感であるということは、眠っているということに外なりません。
つまり自分に対しては醒めることができるが、他人に対しては醒めることはできないのです。
“いや、自分は他人の幸福や不幸に、ものすごく敏感だ!”と言われる方は、自己に対する自信のなさを、他人と比較することによって自信を回復させる手段としているだけのことであります。
結局の処、自己に対する意識過剰がその原点にあって、他人は単なる道具に過ぎないわけです。
嫉妬心というのは、自己に対する意識過剰つまり自意識過剰が原因であります。
わたしたちは、自己に対して意識することしか出来ないのです。
個別化された意識を「想い」とする所以であります。
五感を超えたもの即ち第六感である「想い」が、自己に対する意識であるのですから、五感も、自己に対する意識つまり認識する器官であることは言うまでもありません。
自己以外のものすべてつまり他者は映像に過ぎないと申しました所以であります。
結局の処、映像に過ぎない他者を自己と同一化(identify)する結果生じるギャップが悩みの原因であり、他者を自己同一化(self-identify)することで、更に自己を他者同一化(other-identify)するという暴挙に出てしまう結果、「他人が地獄」であり、「神は死んだ」という結論に行き着くわけです。
自己であっても、他者であっても、同一化(identify)するところに問題がある。
同一化(identification)とは、実体あるものと実体ないものを同じ次元で捉えることを言います。
現実と願望を同じ次元で捉えるのも、まさに同一化(identification)が為せる業であるのです。
現実は自己であり、願望は他者であるわけです。
『今、ここ』は自己であり、過去や未来が他者であるわけです。
4階からしか見えない実舞台が自己であり、背景画面が他者であるわけです。
「わたし」が自己であり、「私」が他者の代表であるわけです。
台風の目が自己であり、台風が他者であるわけです。
そして他者の最高責任者が神であって、神を主人公にした映画を上映しているのが背景画面であって、その映画には自己は出演していないのです。
ただ出演していると錯覚しているだけのことであり、その錯覚のことを同一化(identification)と言っているのです。
わたしたちは生後間もなく親からつけられた名前を自分だと思っていますが、この名前を自分だと思っているのも同一化(identification)であり、錯覚であります。
人間という動物は独りで生きるのが恐いので、名前をつけるわけです。
他の動物は独りで生きるのが当たり前だと思っています。
それは、人間だけにある大脳新皮質が考える能力を与えた結果、独りで生きる実舞台と、他者が映し出されている背景画面を同一化するという錯覚をも併発させてしまったからに外なりません。
大脳新皮質を活発に機能させると、この同一化という錯覚を増幅させることになり、結果、独りで生きることに恐怖を抱き、挙げ句の果てに他者の最高責任者である神を捏造してしまったわけです。
神を、人知の及ばない存在や、宇宙、自然だと仮に捉えたとしても、それは人間だけが持つ概念であり、他の生き物にとっては、在るのは自分だけであって、宇宙も自然も、ましてや神など所詮実体のない他者であるのです。
他の生き物は、自然や宇宙と一体で生きているだけのことであり、自然や宇宙を意識しているわけではないのです。
意識しているのは自分だけです。
自己と他者。
この違いを明確に認識するために、五感と「想い」があるのです。