Chapter 436 神と「カミ」

肉体と意識について論じてみましょう。
量子力学の世界、つまりミクロの世界では、すべての物質は粒子であり、且つ波(波動エネルギー)であると言われています。
肉体と意識を量子力学の観点で言えば、肉体が粒子であり、意識が波(波動エネルギー)であると言っていいでしょう。
最も微小な粒子を素粒子と言って、原子を構成する電子、陽子、中性子などが素粒子と呼ばれるもので、電子は陽子と中性子で構成されている原子核のまわりを円運動し、中性子と陽子との間では量子飛躍によって往来していると言った具合に常に運動(普段の運動)をしており、その運動が波動エネルギーを生んでいるわけです。
素粒子はあまりにも微小なために、粒子としては目に見えなくても、波(波動エネルギー)はキャッチでき、恰も波だけが存在するかのように思えるわけです。
電波は、まさに波動エネルギーの一種で、電波がラジオやテレビで受信され、音や映像と言った一種の粒子(光子体)に変換される。
湖に貯めてある水はH2Oという分子の粒子ですが、粒子である水がダムに放流されることで発電され電波という波になる。
物質が時には粒子、時には波(波動エネルギー)となって、わたしたちの世界−運動の光と音(喧騒)の宇宙−に姿を現わすのです。
肉体が粒子であり、意識が波であると申しました所以であります。
粒子はミクロの世界。
宇宙−肉体としての−はマクロの世界。
その狭間にあるのが五感の世界。
波(波動エネルギー)はミクロの世界。
意識はマクロの世界。
その狭間にあるのが「想い」の世界。
従って、意識も「想い」も、肉体と五感という粒子に対する波(波動エネルギー)の関係だと考えられ、突き詰めてみると運動に外ならないわけです。
そうしますと、意識や「想い」は実体あるもののように思い勝ちですが、実体あるのは、肉体であり、その部分の五感だけであることがわかってきます。
肉体が運動するから意識であり、五感が運動するから「想い」であるわけです。
従って、意識も「想い」も運動に外ならないわけで、意識は全体という概念を表現する方便であって、「想い」は部分を表現する方便で使っているだけのことであります。
150億光年の拡がりを持つ宇宙が、すべての宇宙であるなら、150億光年の拡がりの宇宙そのものが肉体であり、「想い」が意識であるということになるのです。
150億光年の拡がりを持つ宇宙の向こう側は一体どんな宇宙なのかという鼬ごっこがそこから始まる。
神が天地の創造者とするなら、神を創造した者は一体何者からという鼬ごっこがそこから始まる。
「神はすぐ傍」PARTIII(時間からのメッセージ)で、“時間”から、わたしたち人間へ、無限の宇宙(絶対宇宙)を(すべて)と表現してメッセージを送ってくれていますので紹介致します。

静寂の沈黙と暗闇の中は永遠で不変なもの。
その中に、わたしもいたが、わたしはただの名無しの権兵衛。
「すべて」という名だけがある。
「すべて」の中では、「すべて」以外は名無しの権兵衛。
だけど、総てが含まれている世界。
唯一名前を持っているのが、意思という力を持った、「すべて」というもの。
あなたは、お母さんの体から分かれて誕生する時、「オギャー」と叫んだ。
混沌の世界が、静寂の沈黙と暗闇の「すべて」の世界から分かれた瞬間、爆発音がした。
これが、混沌の世界の産声だ。息もその瞬間(とき)誕生した。
息も、静寂の沈黙と暗闇の中では名無しの権兵衛。
息も、動きの中でしか自己実現が出来ない。
わたしも、動きの中でしか自己実現出来ない。
自己実現とは、名無しの権兵衛から名前を持つ存在になること。
静寂の沈黙と暗闇の中では、「すべて」しか名前がない。
混沌の中では、総てに名前が要る。
何故なら、総てが自己実現しようとする世界なのだから。
混沌とは、自己実現のぶつかり合い。
わたしは、そこで「時間」と名づけられた。
それは、わたしが誕生してから、ずっとあとでのことだった。
それまで、わたしはただ流れている意識のあるものだった。
一方通行に流れていく意識だけだった。
−「神はすぐ傍」Part III Message3“わたしの名づけ親”より−

「すべて」について、わたしの知っている限りのことを、あなたに伝えたい。
あなたが名づけた「時間」と言うわたしも、息も、「すべて」の中で渾然一体となっている。
だから、息も、わたしも、「すべて」が親。
わたしには、想いがある。
息にも、想いがある。
わたしたちの想いは動くことができる。
わたしたちの親である「すべて」の想いは動くことが出来ない。
だから、意思と言う。
意思が動き出すと、想いになる。
意思は、一つの力と対になっているから、動くことが出来ない。
想いは、一つの力が二つ、三つ、そして最後に四つになった意思の姿。
刻む意思、光る意思、回る意思、惹き付け合う意思、の四つの意思が動き出す。
四つの意思は四つの想いとなって、一丸となって、混沌の世界を創造した。
一丸となった、四つの想いを「意識」と言う。
ここに意識が誕生した。
「意思」は一つの力が源泉。
「想い」は枝分かれした力が源泉。
「意識」は、一つの力が、一旦枝分かれして、動くことが出来た「想い」の集合体。
 −「神はすぐ傍」Part III Message 5 “(すべて)はわたしの親”より− 

わたしたち(人間)が認識できる世界つまり有限の世界を表現するには、わたしたち(人間)が認識できない世界つまり無限の世界をも表現しなければ、全体を表現することができないのです。
肉体とは、わたしたち(人間)が認識できない無限の世界の五感であり、意識とは、わたしたち(人間)が認識できない無限の世界の「想い」のことであり、無限の宇宙に対する150億光年の宇宙が部分であるように、銀河星雲が150億光年の宇宙の部分であるように、太陽が銀河星雲の宇宙の部分であるように、地球が太陽系惑星群の部分であるように、個人のわたしたち人間は地球という宇宙の部分である小宇宙の最小単位であります。
それぞれの全体が肉体であり部分が五感であります。
それぞれの全体が意識であり部分が「想い」であります。
従って、有限宇宙に対して無限宇宙を表現する方便として、肉体と意識があるわけで、わたしたち(人間)が認識し得る宇宙は、部分である五感と「想い」しか無いわけです。
物理学の世界では、わたしたち(人間)が発見した物理学の法則が適用でき得る宇宙を有限の宇宙として、物理学の法則が適用できない宇宙を無限の宇宙として、その分岐点を特異点と呼んでいます。
つまり、わたしたち(人間)が生きる上で適用できる法則は、所詮部分の宇宙の法則であって、全体の宇宙の法則は適用できないのであります。
天地創造主を神とするなら、神を創造した者は一体何者なのか。
天地創造主の神は、わたしたち(人間)の世界の法則に則しているが、更に神を創造した者には、わたしたち(人間)の世界の法則は通じないのであります。
人知の及ばない存在は、わたしたち(人間)の世界には通用しないのであります。
神を絶対視できない所以がここにあるのです。
神も所詮は部分ということになります。
拙著「神の自叙伝」で地球の「想い」を「カミ」として、それを人間が勝手に神としただけのことであるとした理由がここにあるのです。