Chapter 437 生きるとは独りになること

わたしたちは有限世界の中で無限運動をしています。
それを「普段の運動」と言うのです。
つまり終着駅がない、堂々巡りの人生を送っているわけです。
しかし、わたしたちの普段の人生を振り返ってみると、常に何かゴールを目指して生きています。
悟りを目指して一所懸命修行をする。
事業の成功を目指して懸命努力をする。
試験の合格を目指して日々勉強に励んでいる。
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努力をする原動力としては、目標つまりゴールを設定するのは、確かに有効な手段だと言えます。
しかし、仮にゴールに到達したとして、さてそれからどうするのでしょうか。
“これもまた過ぎ去る”
関白まで上り詰めた秀吉が、まだこの世的成功に飽き足らずに、前代未聞の大閤という称号まで捏造したのに、ゴールにまで達した満足感どころか、ますます不満が募り、利休に言った。
“ 心安らかに定める茶器を欲しい。
心晴れぬ時には悦びを与え、悦びにある時には悲しませるものだ ”
人間が追い求めるゴールというものは、こと左様に勝手なものであります。
あれだけ悟りを求めて生きてきた人間が、一旦悟りを開くと、悟りを開けない時のことを求めるようになるのが、わたしたち人間の業なのでしょうか。
原因は、ゴールとは蜃気楼であるという理解の欠如にあります。
蜃気楼は実体のないものですから、いくら追い求めても辿り着くことはないのです。
逆に言えば、辿り着くことのできないものがゴールに外ならないということが、宇宙の法則つまりわたしたちの運動の光と音(喧騒)の宇宙での真理と言えるのです。
有限世界の中で無限運動をする。
地平線を歩き続けば、自分の処に戻って来る円回帰運動をするのが、わたしたちの真理であります。
しかし、わたしたちは真理を無視してゴールを目指して生きています。
文明は、ますますGoal-oriented(ゴール志向)の生き方を、わたしたちに求めているようです。
これでは永遠の鼬ごっこから抜け出すことはできません。
Goal-oriented(ゴール志向)の生き方ができないのが、運動の光と音(喧騒)の世界での真理なのです。
Process-oriented(過程志向)の生き方が、運動の光と音(喧騒)の世界での真理なのです。
つまり過去や明日に視線を置かずに、『今、ここ』に視線を置く生き方であります。
水平的生き方をせずに、垂直的生き方をする。
その時、過ぎ去ることのない永遠のものを手にすることができるのです。
“ 井の中の蛙、大海を知らず ” は水平的生き方、つまりゴール志向の生き方の薦めです。
“ 井の中の蛙、大海を知らず、されど空の高さを知る ” は垂直的生き方、つまり過程志向の生き方の薦めです。
水平志向は他者と世界を共有することで、垂直志向は独りだけの世界にいることです。
生きるとは、独りだけの世界にいることに外なりません。
あなたは、誰かと一緒に生きることはできますか。
それなら、その人と一緒に死ぬことができる筈です。