Chapter 438 努力とは寝食を忘れること

ルネッサンスの巨匠レオナルド・ダ・ビンチは画家であり、彫刻家であり、科学者であり、哲学者でもありました。
彼が創造・創作したものは、人間業とは思えない程の質と量であります。
読者のひとりの方から、感想が寄せられ、レオナルド・ダ・ビンチは4時間毎に15分の睡眠だけで済ましていたことを紹介して頂き、わたくしが主張しています、睡眠は不要とはいかないまでも、細切れな睡眠で生きてゆくことができる証明を、レオナルド・ダ・ビンチがしてくれたのであります。
「普段の運動」だけをしていれば睡眠は不要であり、「激しい運動」をした分だけ小休止として睡眠を採らなければならない、生きるということはその本来性において「普段の運動」だけでこと足りるのであって、「激しい運動」はその本来性において余計な運動であり、健全な肉体と健全な意識つまり、健全な五感と健全な「想い」の不在としての悩みや病気を引き起こす結果の原因がこの「激しい運動」にある。
天才と言われたレオナルド・ダ・ビンチでさえ、4時間に15分つまり一日24時間では90分(1時間30分)の睡眠を要求する「激しい運動」をしていたことになると、わたくしの理論では言えるわけです。
この話を紹介して下さった方は、因みにアインシュタインは一日10時間の睡眠を採っていたことも紹介してくださいました。
人間、歳を重ねていくと、睡眠時間はどんどん減少していくのが一般であるのに、そんな中でアインシュタインは10時間の睡眠を採っていたことも、レオナルド・ダ・ビンチとは逆の意味で、わたしたち凡人にとっては異常だと言えます。
アインシュタインにとっては睡眠イコール覚醒であったのでしょう。
普通の人間には到底及ばないような偉業を為し遂げた人たちというのは、日常生活そのものにもやはり偉業的要素を包含していると言えます。
振り返ってみて、わたしたち一般の凡夫はどうかと申しますと、自分ではなかなかの者だと思っているのであります。
レオナルド・ダ・ビンチやアインシュタインまでいかないにしても、自分は相当な者であると思って生きているのであります。
自分は相当な者であると思っているからこそ、危険でいっぱいな人生の中を、自信という箍で自己を括って生きることができているのです。
ひとたび自信という箍がばらばらに崩れたら、人間は生きる力を失って、自らの命を絶ってしまうものです。
自分は相当な者であるという自信こそ、生きるエネルギー源になっている。
従って、生きている人間はみんな自信を持っているのです。
問題は、その自信の客観的評価であります。
つまり適正評価であります。
わたしたちの自信は、主観的評価の上に成り立っているだけで、客観的評価が為されていない点に問題があるのです。
主観的評価と客観的評価の違いは、そのばらつきの大きさにあると言えるでしょう。
つまり程度の違いと言うことであり、質の違いではありません。
客観的評価を適正評価だと申しました所以であります。
自分は相当な者であるとする自己評価が、主観的評価か客観的評価であるかの違いが、わたしたち凡夫とレオナルド・ダ・ビンチやアインシュタインとの違いであるわけです。
では評価のばらつきの原因は一体何かと申しますと、自己の実在(実舞台)と現象(背景画面)のばらつきのことであり、自分の欲することと、在ることとのギャップつまり分裂症状の程度が大きい程、ばらつきが大きくなるのです。
平たく言えば、言っていることと、やっていることのギャップの大きさであり、わたしたち凡夫は、言うばかりで、行動が皆目伴っていないのであり、レオナルド・ダ・ビンチやアインシュタインは言行一致の人生を送った結果が、4時間に15分の睡眠であり、一日10時間の睡眠であったと言えるのです。
自分は相当な者であるなら、それ相当な努力をしなければなりません。
結局の処、天才と凡夫との違いは、努力の差に外ならないのです。
睡眠時間を減らすことが、何をするかよりも、努力の原点であります。
わたくしごとで申しわけありませんが、わたくしは14才の時に朝5時に起きることを決意したのですが、その動機は、何をするかよりも、他の人よりも2時間睡眠を減らすことにあったのです。
人間必死になると、寝食を忘れて一心不乱になります。
努力とは睡眠時間の極小化に外なりません。