Chapter 445 清貧の薦め

内面的な美しさが、人間の真の魅力(「想い」の重力)だと言えるでしょう。
外見上の美しさは、一時的な魅力であって、時間−垂直方向の虚時間ではなく、水平方向に流れる実時間−の流れの中で、エントロピーが増えていくように、どんどん衰えて醜くなっていく。
真の魅力(「想い」の重力)は、時間の経過と共に、どんどん増していくものです。
三つの時間の矢に沿っていけば、それはエントロピーに必ずなるわけですから、真の魅力(「想い」の重力)は、垂直の時間、つまり虚時間に沿っているものと言えるでしょう。
従って、真の魅力(「想い」の重力)が、どんどん増していくということは、どんどん高くなっていく感覚である筈です。
わたしたちひとりひとりが、自分の魅力を確かめる際に留意すべきことは、真の魅力(「想い」の重力)とは、量的増大ではなく、質的向上にある点です。
お金持ちになっても、それは量的増大であって、質的向上ではありませんから、お金持ちになることは、真の魅力(「想い」の重力)ではないということです。
この世的成功の中で一番微妙なのが、世間的名声や地位の成功であります。
名声や地位は、質的向上にその本質があります。
だから、名声や地位の評価は、多い少ないではなくて、高い低いで為されます。
ところが、拝金主義が蔓延ってくると、高い低いで評価されていた名声や地位が、多い少ないで評価されるようになる。
つまり名声や地位が高くなると、収入が増えてお金持ちになるという奇異な現象が起きているのが現代日本社会です。
現代人のわたしたちは、その現象を至極当然のように考えています。
偉くなったら、それに伴って収入も増えるのが当たり前だと思い込んでいる。
聖人とか、聖職者というものは、尊敬という名声を享受できる反面、物質的には恵まれない、いわゆる清貧の人たちを本来言うのです。
清貧の人すなわち聖人・聖職者であり、政治家・役人・教育者・医者・宗教者・・・たちは、みんな清貧の人たちであったのです。
それが、今では、政治家・役人・教育者・医者・宗教者は、清貧の人どころか、貪欲の人に成り下がってしまった。
聖職者なき社会こそ、まさに修羅・畜生の世界であります。
そう考えますと、現代における、この世的成功は、表面的には名声や地位が高くなっているように見えても、実のところは、唯のお金持ちになったことと、何ら変わりはないわけであります。
芸人は、“河原乞食”と蔑視されていた時代でも、収入は一般よりずっと多かったのです。
人間の価値観は、物質的豊かさと、精神的豊かさ、つまりわたくし流の表現法ですと、水平的人生観と、垂直的人生観は、反比例するのが常識であるのです。
ところが拝金主義が蔓延するに連れて、物質的豊かさと、精神的豊かさが、正比例するのものと考えるのが常識になってしまった。
水平的人生観と垂直的人生観が正比例する筈などないのです。
そもそも比較できるような次元の話ではないのであります。
睡眠を採ることが常識の世界とは、まさに加え蓄積していくプラス・サム志向であるのに対し、睡眠を減らすことが常識の世界とは、減点していくマイナス・サム志向であるのです。
わたしたちは、自己 の固有の人生観をも、拝金主義思想にどっぷり冒され続けてきたのであります。
物質的豊かさと精神的豊かさとは反比例するものだと思える人生観を、先ず持つことです。
すなわち、清貧の人であることが、真の魅力(「想い」の重力)の人であり、永遠の美しさを持つ人と言えるでしょう。
逆に、貪欲の人であることが、二元的魅力つまり、醜さと表裏一体になっている外見上の魅力の人であり、一時的なものに過ぎないのであります。