Chapter 447 「想い」の絶頂

セックスにおける絶頂は、悟りの一瞥に外ならないと再々申してきました。
セックスに対する渇望に似た想いは、その快感の記憶が為せる業だと、わたしたちは思っています。
五感レベル、つまり肉体が個別化した五感が快感を覚えた記憶が蓄積されているのですから、確かにその要因もあります。
一方、第六感の「想い」レベルになると、肉体的快感ではなくて、意識的快感になるであろうことは、少し脳味噌に汗を掻けばわかります。
五感と第六感は、常に同一(一体)行動をしているのですから、当然のことであります。
それでは意識的快感とは一体どんなものでしょうか。
全体つまりマクロでは、肉体と意識があり、個別つまりミクロでは、五感と「想い」があるのが、運動の光と音(喧騒)の宇宙の法則であり、二元論の原点でありますから、五感と「想い」は切り離すことのできないものです。
肉体(五感)だけが消滅して、意識(「想い」)は消滅しないような死後の世界など在り得ない所以であります。
認識のできないものを在ると言える者が、五感と「想い」以外にいるとするなら、それは五感が全体に溶け込んだ肉体と、「想い」が全体に溶け込んだ意識以外に在りえないわけで、肉体と意識は全体故に、区分けの一切無い世界であります。
そこに在るのは、ただ静止の暗闇と沈黙の宇宙であり、唯一つまり無の意思が在るだけで、個別認識の一切無い世界であります。
神も人間も区別できない世界であり、五感も「想い」も区別できない世界であり、それ故に静止の暗闇と沈黙の世界であるわけです。
五感レベルにおける快感のひとつが、セックスにおける絶頂であり、至福の境地の一瞥であると申しました。
至福とは一瞥ではなくて、永遠の絶頂と言っていいでしょう。
ここで言う永遠とは、飽くまで、運動の光と音(喧騒)の宇宙つまり有限の中での永遠であることは言うまでもありません。
逆に言えば、有限の中での無限運動が、わたしたち生きものに課せられた真理であるのです。
真理にも、個別性がある所以であり、運動の光と音(喧騒)の宇宙だけでは、全体を表せない故の、静止の暗闇と沈黙の宇宙を以って全体、すべて、ひとつ、無限という表現が可能になる所以でもあります。
従って、個別性を有するということは、有限の中でも無限運動をすることを以って無限とするしか方法は無いわけで、至福の一瞥という表現も、無限運動の中での有限運動という意味に外ならないのであります。
五感レベルでの快感がセックスにおける絶頂であり、全体という肉体に溶け入ることを以って至福とするものの一瞥であるのに対し、第六感である「想い」レベルでの快感は、全体という意識に溶け入ることを以って至福とするものの一瞥であるわけです。
至福とは、全体に溶け入ることであり、絶頂はその一瞥という、全体を認識しての部分の至福の境地と言えるわけです。
従って、全体でしか至福は有り得ないわけであって、部分でしか至福の一瞥は有り得ないことになります。
セックスにおける快感が至福の一瞥であることは、まさにわたしたちが生きていることの証であり、死後の世界つまり全体に溶け入ることによって自己を失う一瞥を経験することの実感に外ならないのであります。
「想い」の絶頂とは、自己を失う一瞥である所以です。
生きている限り、一瞥しかないわけですから、死ねば、一瞥から永遠の至福に至るわけであります。