Chapter 448 自己喪失の効用

五感の絶頂も、第六感である「想い」の絶頂も、自己を失うことによって得られる至福の境地の一瞥であることがわかりました。
肉体面での自己喪失が、セックスにおける絶頂の五感レベルでの覚醒であり、意識面での自己喪失が、セックスにおける絶頂の「想い」レベルでの覚醒であるわけです。
結局の処、部分の五感から全体の肉体への回帰、部分の「想い」から全体の意識への回帰であり、自然への回帰、宇宙への回帰、再び全体に溶け入る際の帰郷への実感が、絶頂による至福の一瞥に外ならないわけです。
大人になった海の鮭が、自分の生まれた川上に帰郷する走性こそが、至福の一瞥であり、その延長線上に死が横たわっているのです。
至福とは、そして死とは、自己を失うことに外なりません。
「滅私」とは至福の境地に至る道標であり、「自我」とは至福の境地から遠離る道標であることを、肝に銘じておくことです。
五感及び第六感である「想い」が、覚醒しているか、眠っているかの違いこそ、生きているものにとって、自己を失っているか、自己に埋没しているかの違いであり、至福の境地の一瞥を実感しているか、していないかの違いであり、セックスにおける絶頂が、その一瞥を味わわせてくれるのです。
セックスというものは、子孫保存行為でもあるわけで、子孫保存欲とは自己保存欲に外ならないわけですから、自己を失うことで、自己を取り戻す、まさしく二元論の法則そのものであります。
川で生まれた稚魚の鮭が、海で大人になり、再び故郷の川に戻り、卵を産み、最後に死んで行く一生こそ、二元論世界、つまり運動の光と音(喧騒)の宇宙に生きるすべてのものに適用される掟であります。
宗教の世界で、セックスを禁ずるのは、自己を失うことによる負の面の効用、つまり欲望に耽る行為に対する戒めに重きを置いた結果であります。
自己を失うことによる正の面の効用つまり至福の一瞥としての実感経験を一切無視した一面的な考えであります。
更に、創造の行為の原点であるセックスを認めないことは、天地創造主をも認めないことであり、従って、イエス・キリストは処女マリアから誕生したなどと嘯かざるを得ないわけで、自己を失うことの正負両方の効用という、二元論世界の掟を看過できない自己矛盾を内包させているものこそ宗教であると言っても過言ではありません。
キリスト教の原点に偽善性が内包されている証明に外ならないわけで、二元論世界に生きているから四苦八苦があり、四苦八苦を経験することで、二元論世界のことを知る、つまり運動の光と音(喧騒)の世界を知り、その向こうに三元論世界の存在、つまり静止の暗闇と沈黙の世界の存在を知ることができるのです。
生きているということは、すべての現象を透過する、つまり受け入れることの経験に外ならないのであって、至福の一瞥とは、まさに受け入れる経験の最適の教材であると言えるでしょう。