Chapter 449 自我意識(Egoism)

自己喪失とは、個別化された「想い」が全体の意識に溶け込み、自我意識(Egoism)−一般には、Mind(心)と言われているものですが−が喪失することに外なりません。
自我意識(Egoism)とは、四六時中観ている夢つまり背景画面の中に自己同化させた際に生ずる「私」であります。
従って、「私」とは実体あるものではなくて、飽くまでも観念だけのものでありますから、自我意識(Egoism)も、単なる観念であります。
蓄積された記憶を背景画面に再生させた無制限連続バラバラ一本立ての映画が、夢の実体であり、眠りの中のみならず、目が醒めている間でも、つまり四六時中、この映画は上映され続けています。
五感が「想い」よりも醒めている状態、つまり目が醒めている状態では、五感で受信する外界の光景に対して、「想い」で受信する内なる世界の光景つまり夢は、上映されているのだけれども、ぼやけていてはっきりと見えないわけです。
五感の見る世界は、過去や未来という時間を加えた四次元時空間の世界ではなくて、自己の人生である四次元時空間世界を、『今、ここ』で切った断面の三次元空間の世界であります。
一方、すべての記憶の再生映画である夢の世界は、記憶の本質である過去のすべてを包含しておるわけですから、自己の人生という、四次元時空間世界に生まれてから現在−『今、ここ』ではなくて、過去と未来に繋がった現在−までのコマつまり静止画面の集積されたものです。
映写フィルムは、自己の人生である四次元時空間世界を、『今、ここ』で切った断面を撮影した静止画面(コマ)を、時間の流れに合わせて何枚も重ねたものに外なりません。
動画面とは、静止画面(コマ)を何枚も重ねたものを、速く移動させることによって、恰も動いているように、錯覚させたものがその正体であります。
基本は、『今、ここ』で切った断面である静止画面であり、現像フィルムは、一枚一枚の、『今、ここ』で切った断面静止画面を重ね合わせたものであります。
現像フィルムを映写機で速く回すと、スクリーン(背景画面)に、動画面として映し出されるわけで、それが夢の世界に外ならないのです。
そうしますと、現像フィルムはどうしてできたのかといいますと、撮影現場つまりロケで、映画監督の指示の下に、カメラマンが撮影したものであるわけですが、撮影現場つまりロケとは、『今、ここ』の『ここ』であり、撮影するのは、映画監督が、「スタート!」と号令を掛けてから、「カット!」と号令を掛ける間であり、その間こそ、『今』に外ならないわけで、背景画面の前に設置された実舞台とは、まさにこのロケ現場であるのです。
映画監督は、ロケ現場の総責任者であり、出演者に演技の指導をします。
映画監督自身は出演しないけれど、自分の「想い」を出演者に委ねて演技させます。
出演はしないけれど、陰の主人公は、映画監督である、本当の「わたし」であります。
ロケ現場である、実舞台に上がって、主演者ひとりひとりに演技指導をするのが、映画監督である、「わたし」であります。
現実の世界とは、まさにこの実舞台つまりロケ現場ですが、それを撮影した、つまり記録(記憶)したフィルムを再生したものは、現実ではなくて、夢であり、目が醒めているけれど、『今、ここ』ではない、所謂現実であるのです。
目が醒めていても、『今、ここ』にいなければ、それはロケ現場である現実ではなくて、撮影フィルムを再生した映像であります。
自分以外の他者はすべて映像に過ぎないと申しました所以であります。
映像には、映画監督である、「わたし」は登場しませんが、映画監督の「想い」は反映されています。
その「想い」こそ、「私」であり、自我意識(Egoism)に外ならないのです。
映写出演もしていない観賞者である、「わたし」が恰も出演しているかの如く思い込んでいる、蜃気楼のような「私」を、蜃気楼と気づかずに生きているのが、普段のわたしたちであり、自我意識(Egoism)であります。
「私」を蜃気楼だと気づき、夢という映画の監督である、「わたし」を思い出すことが、自己喪失であります。