Chapter 506 「想い」の言葉

言葉には、外に発する言葉と内に発する言葉の二種類があります。
外に発する言葉は音を発しますが、内に発する言葉は音を発するのではなくて、「想い」を発します。
つまり他者との間のコミュニケーションは五感で為されるのに対し、自己との間のコミュニケーションは五感ではなくて、第六感である「想い」で為されているわけです。
他者はすべて映像である所以がここにあります。
映像というのは五感で受信するすべてのものを言うのであって、五感のひとつである視覚で受信した画像だけが映像ではありません。
映画は画像だけではなくて音も入っており、匂いのある映画もあり、三次元映画になれば味も肌触りもあるのです。
夢の中で展開される映像は、まさに画像だけではなくて、音も匂いも味も肌触りもある三次元映画に外なりません。
夢を観ている間は、夢を夢だと思わずに現実だと思っているのですから、昼間目が醒めている間の所謂現実も夢と同じ映像であると考えるのが当然のことであります。
夢を観ている間も、映像である夢だと認識してはじめて、所謂現実は現実だと思えるわけです。
その時の現実は映像ではなくて、自分も出演している実舞台であるのですが、夢を観ている間の自分は、夢という映画の中には出演していないのですから、まさに映画であるのです。
従って、夢と所謂現実は、自分が出演していない映画であり、それらは五感を通じて受信しているものであります。
一方、夢を夢だと思えるようになった結果、所謂現実という映画から、現実という実舞台になると、それは五感を通じて受信するのではなくて、第六感である「想い」を通じて受信するものであります。
他者を感じるのは五感であり、自己を観じるのが「想い」であります。
従って、五感に対して第六観と言った方が適切でしょう。
今まで、夢を「観る」と表現してきたのは、五感で見る夢は映像である所謂現実であって、第六観で「観る」夢が実舞台の現実であると強調したかった所以であります。
従って、言葉も五感を通じている間は、映像に過ぎないのですが、「想い」を通じるようになると現実のものとなるのです。
言葉を最初に憶えるのは、他者から教えてもらうのですから、五感を通じての映像であるのですが、映像を何度も何度も繰り返している間に、五感から「想い」に変わってくる。
五感を通じている間は、見る者、見られる者、見る行為の三つに分けられますが、「想い」を通じるようになると、見る行為だけになり、見る者も、見られる者もいなくなります。
見る行為だけのことを「観る」と言うわけです。
音を発する言葉は、五感を通じての映像の一種ですが、「想い」を発する言葉は、現実化する言葉です。
自己に対する言葉はすべて「想い」を通じているからこそ現実化するのです。
従って、他者との間で為されるコミュニケーションも、音で発する言葉でなくて、「想い」で発する言葉でコミュニケーションされてはじめて、他者も自己と同じ実舞台に立ったことになるのです。
他者を映像と思わずに実物だと思えるには、音の言葉でコミュニケーションするのではなくて、「想い」の言葉でコミュニケーションしない限り無理なのです。
恋人同士の世界を、「ふたりの世界」と言うのは、彼らは「想い」の言葉でコミュニケーションしているからであり、一般に他者との関わりの世界とは別世界だと思える所以がここにあるのです。
善悪、強弱、貧富、賢愚・・・幸・不幸、天国・地獄そして神・悪魔。
これらの二元要因の言葉を口にしない運動をする上において留意すべきことは、音としての言葉を発しないようにすることも大事ですが、「想い」としての言葉を発しないようにすることであります。
つまり一般的に言えば、考えないことから始まり、考えないことを考え続けると、考えに非ずの境地になる。
『不思量底思量 是即非思量』であります。