Chapter 513 『今、ここ』という窓とドアー

『今、ここ』というのは、自分の世界という家の窓であり、窓の外には広大無辺の全体という世界の光景があると考えればわかり易いのではないでしょうか。
『今、ここ』という窓が唯一、全体という世界と繋がっている場所で、全体という世界を見ることができるのです。
わたしたちはそれぞれ、自分の世界という家に住んでいて、そこには自分以外誰も住んでいないのです。
自分の生んだ子供といえども、窓の外の世界にいて、『今、ここ』という窓からしか見ることができません。
三次元空間世界では、窓の内の世界と、窓の外の世界とは繋がっていて同じ世界だと思い勝ちですが、境界にしている窓は、『今、ここ』という三次元空間と四次元時空間との橋渡し役をしている、水平世界と垂直世界の唯一の交差点であるのです。
四次元時空間世界に入るには、『今、ここ』という交差点を通ってしか入れないという意味であり、わたしたちが他者と関わるのは、『今、ここ』という窓を通じてしかできないのであります。
窓の内から窓の外の景色を見ているのが他者のすべてであると言っても過言ではありません。
他者はすべて映像であるという所以であります。
しかも映像の他者を見ているのは、『今、ここ』だけであって、昨日や明日に「想い」を馳せていては、映像である他者を見ることもできないのです。
『今、ここ』にいるということは、窓の前に立つことであり、昨日や明日に「想い」を馳せるということは、窓から離れて、家の中に引きこもって、背景画面という蓄積された自己の記憶を再生したビデオテレビを見て、それを恰も現実の世界と勘違いして生きているのです。
家の中に引きこもっていては、現実の世界という光景を見ることはできない。
『今、ここ』という窓の前に立ってこそ、現実(リアル)の世界を見ることができるのです。
ただ見える光景が、ビデオテレビという背景画面と、窓の外の世界とは同じために、わたしたちはビデオテレビで見ている光景を現実(リアル)だと錯覚しているのです。
『今、ここ』という窓の前に立って観る光景、昨日や明日という家の中のテレビでもって背景画面というビデオテレビを見る光景。
同じ光景でも、見るのと観るのとでは、全く異次元の世界なのです。
ビデオテレビでは事実の一部を見ることができても、事実を観ることはできない、それは二元論世界の平面テレビであるからです。
三元論世界にある立体テレビを見ることでしか、事実を観ることはできない。
更に、『今、ここ』という窓の前に立って、外の世界の光景を見ることではじめて真実が観える。
自己の肉体を持っている限り、可能なことはそこまでであります。
『今、ここ』という窓がドアーになって、そのドアーを開いて、全体の世界に入って行ってこそ、真理が観えるのです。
『今、ここ』という窓の前に立つことが、生きているということであり、『今、ここ』というドアーを開くことが、死に直面することであり、『今、ここ』に立たない限り、死ぬことさえできないのであります。
『今、ここ』というドアーは一生に一回開ければいいのですが、『今、ここ』という窓は、毎朝開けてやらないと、新鮮な外気を入れてやることはできません。
色即是空、空即是色の色と空とは、『今、ここ』を境界にした映像の世界と実在の世界であるのです。
不思量底思量、是即非思量の思量と非思量とは、『今、ここ』を境界にした「想い」と「意識」であるのです。