Chapter 515 虚時間の『今』

自己の個性を、三次元空間世界で顕現したものが自己の事実であり、四次元時空間世界で顕現したものが自己の真実であります。
過去を悔やみ、未来を思い患う人生を送っている普段のわたしたちは、三次元空間世界の運動法則である二元論に囚われているので、自己の一部の事実しかわからず、それを自己のすべてだと錯覚して生きているのです。
まさに錯覚と思い込みの人生であり、錯覚と思い込みが四苦八苦の思い悩む人生を捏造(つくりあげ)ている正体なのです。
どこか具合が悪くても、その原因がわかり、その処置方法がわかっていれば、悩むことはありません。
結局の処は、時がすべてを解決してくれるわけですが、『その時』が来るまで、あれこれ考えて思い悩むわけです。
『その時』が来るまで、あれこれ思い悩まないでいれば、必ず解決してくれるのですから、結局の処、具合の悪いようなものは端からなかったことに気づくことができるのです。
問題は、『その時』が来るまでの間、どう考える−不思量底思量−か、厳密に言えば何も考えないでいられる−非思量−かに掛かっていると言ってもいいでしょう。
しかし、必ず、『その時』がやって来る。
三次元空間世界での、『今、ここ』、四次元時空間世界での、『今、ここ』が交差する点が、『その時』であります。
『その時』が来るまでの間、何も考えないでいられるよう−非思量−にするには、三次元空間世界つまり水平的拡がりの中での自己の位置を出来るだけ近くへ引き寄せること、別の言い方をすれば、四次元時空間世界つまり垂直的拡がりの中での自己の位置を出来るだけ、高めることです。
過去に馳せている「想い」、未来に馳せている「想い」を出来るだけ、引き寄せるということは、一生のことを思い患うより、三年前、三年先のことを思い患う。
三年前、三年先のことを思い患うより、三ヶ月前、三ヶ月先のことを思い患う。
三ヶ月前、三ヶ月先のことを思い患うより、三日前、三日先のことを思い患う。
三日前、三日先のことを思い患うより、三時間前、三時間先のことを思い患う。
三時間前、三時間先のことを思い患うより、三分前、三分先のことを思い患う。
三分前、三分先のことを思い患うより、三秒前、三秒先のことを思い患うようにすることで、三次元空間世界での、『今、ここ』に近づくことができるわけで、つまり、出来るだけ何も考えないでいられるようになるのです。
そうしますと、三次元空間世界と四次元時空間世界との相対性により、四次元時空間世界での位置が高まっていくことになります。
つまり、自己の真実を眺望できる位置がどんどん高くなっていく。
低い処から水平的拡がりを眺望するより、高い処から水平的拡がりを眺望する方が、より遠くを見ることができる。
逆に言えば、垂直的拡がりの「想い」を馳せないで、水平的拡がりばかりを気にしているわたしたちは、遠い前のことも、遠い先のことも、まるで見えないにも拘らず、気にしている徒労の人生を送っているわけです。
それが、過去を悔やみ、未来を思い患う、四苦八苦の人生に外ならないのであります。
自己の三次元個性である事実を見るためには、水平的拡がりの中で、『ここ』に引き寄せること。
自己の四次元個性である真実を見るためには、垂直的拡がりの中で、『今』を高くすること。
三次元空間世界での、『今』の位置は一点しかない、つまり四次元時空間世界との交差点しかありませんが、四次元時空間世界での、『今』の位置は高低の差があるが無限にあり、それが虚時間であります。
実時間では、昨日、明日は無限にあり、『今』は一点しかないが、虚時間では、昨日、明日は無くて、『今』が無限にある。
『今、ここ』は、四次元時空間世界では、『今』の位置に高低があり、『今』の位置が高くなればなるほど、真理が見える五次元世界の窓に近づくことができるのです。