Chapter 520 善悪の判断

わたしたちの人生は、善悪の判断の連続であると言っても過言ではありません。
朝目が醒めた瞬間(とき)、善悪の判断の一日が始まり、夜眠りに就く瞬間(とき)、善悪の判断で一日が終わる。
善悪の判断が延いては幸・不幸、天国・地獄、神・悪魔の判断に発展し、二元論世界の四苦八苦の人生が展開されていくわけです。
アダムとイヴが知恵の果実を食べたためにエデンの園を追放されたのは、エデンの園に生きているものは一切善悪の判断をしないのに、知恵の果実によって人間だけが善悪の判断をするようになったからであります。
エデンの園に生きているものたち、つまり他の生き物は一切善悪の判断をしないのであります。
事実と真実とは、それぞれの個性体だけが持つ固有のものであって、ある人の事実と別の人の事実とは違うわけで、ある人の真実と別の人の真実ともまた違う。
つまり事実を顕わす三次元空間世界、真実を顕わす四次元時空間世界とは、個性体の世界であり、それに対して真理を顕わす五次元世界が全体の世界であると申しました。
従って、二元要因の原点である善悪の判断は飽くまで個性体レベルの話であって、全体レベルのものではないのです。
つまり、ある人の善悪の判断と、別の人の善悪の判断とはまるで違うということなのです。
ところが、わたしたちは善悪の判断を普遍的なものと捉えている。
旧約聖書の創世記でアダムとイヴの物語をしておきながら、出エジプト記では、神が人間に善悪の判断基準である戒めを与えているのは、聖書の著者が性悪説に則した考え方であるからで、自己矛盾も甚だしいと言わざるを得ません。
人間社会だけにある決まりや掟、つまり憲法や法律というものはすべて、この性悪説の戒めに則っているわけで、わたしたちが朝目が醒めた瞬間(とき)から、夜眠りに就く瞬間(とき)まで、善悪の判断の連続で生き、善悪を往来して生き、まさに戒めや法律とは破られるためのものに外なりません。
従って、善悪の判断を一切しない人生を送ることができれば、四苦八苦の人生から解放されることは間違いありません。
“そんなことは頭では理解できても、実践することは不可能だ!”と殆どの方が言われるでしょうが、夜眠りに就いてから、朝目が醒めるまでの間、つまり眠っている間は、わたしたちは善悪の判断を一切しないでいることに気づかれたことはないでしょうか。
つまりわたしたちの80年の人生のうちの三分の一を占めている時間を、わたしたちは善悪の判断をしないで生きているということに注目すべきだと思うのです。
わたしたちはエデンの園を完全に追放されたのでなくて、人生の三分の一はエデンの園に戻っているのです。