Chapter 532 運動と静止

二元論的考え方の基本にあるのが、運動の法則であります。
つまり五感で以って自他の肉体の区分けをし、「想い」で以って自他の意識の区分けをしているのは、すべてのものが動いていることに起因しているからであります。
全体と一体であれば自他の区分けなど在り様がない。
赤ん坊が母親の胎内にいる時は、母親と赤ん坊は一体でありますが、十月十日が過ぎると赤ん坊が−母親ではなくて−母親の肉体から離れようとする、つまり自立しようとすることで、自他の区分けが生じる第一歩を踏み始めるのです。
それまでは母親の一部として生きてはいたが、独立した存在としての命はなかったのです。
母親の胎内から離れた時に、自己の力で息をすることではじめて生を得たと同時に自他の区分けが生じたのです。
従って、自他の区分けが生じるとは、命を得ることをいうわけであって、逆に言えば、息を引き取って命を失うということは自他の区分けが消滅することと言ってもいいでしょう。
息に命の素−生命エネルギー−があると言われる所以であります。
運動をするということは、息をするということに外ならない。
機械が動くためには電気や燃料といった動力源が要ります。
生き物という機械が動くためにはやはり動力源が要ります。
息こそ動力源であり、自他の区分けの根源であります。
普段のわたしたちは、息を意識しないで生きていますが、何か不測の事態が起きると息を意識するのは、「普段の運動」から「激しい運動」に変換する際のアクセルを踏む行為に外ならないわけで、深呼吸をすることでエンジンにガソリンを大量に送り込んでいるのです。
この緊張状態の時に自他の区分けが極致に達している。
自他の区分けというのは、部分が全体から切り離されるのではなくて、部分の運動の役割を自覚しただけのことであり、所詮は全体の運動の一環としてのものであることは言うまでもありません。
息は呼吸と言って、吸う息と吐く息のふたつの過程があるのは、全体の運動の一部としての運動の動力源であることを意味しているのです。
ふたつの過程があるということは折り返し点という境界があるということであり、折り返すことこそが運動の運動たる所以であり、二元論の二元論たる所以であります。
善悪二元論とは、善と悪を折り返す(繰り返す)ことに外ならない。
強弱二元論とは、強者と弱者を折り返す(繰り返す)ことに外ならない。
貧富二元論とは、お金持ちと貧乏を折り返す(繰り返す)ことに外ならない。
賢愚二元論とは、賢者と愚者を折り返す(繰り返す)ことに外ならない。
幸・不幸二元論とは、幸福と不幸を折り返す(繰り返す)ことに外ならない。
天国・地獄二元論とは、天国と地獄を折り返す(繰り返す)ことに外ならない。
神・悪魔二元論とは、神と悪魔を折り返す(繰り返す)ことに外ならない。
結局の処、息という呼気・吸気二元論の呼気が善・強・富・賢・幸福・天国・神という一方の要因を総称した弛緩のプロセスであり、吸気が悪・弱・貧・愚・不幸・地獄・悪魔という他方の要因を総称した緊張のプロセスであるわけです。
地獄とは吸う息の緊張であり、天国とは吐く息の弛緩であるだけのことです。
悪魔とは吸う息の緊張であり、神とは吐く息の弛緩であるだけのことです。
所詮表裏一体の関係には変わりはない。
しかし、運動には必ず折り返し点(繰り返し点)がある。
息にも吸う息と吐く息の間に折り返し点(繰り返し点)がある。
折り返し点(繰り返し点)とは、一瞬−厳密には一瞬も時間ですが−だけ静止する点であります。
この静止点が、全体と一部の懸け橋になっていて、一部の運動といえども、それは全体の運動の一部であることを示唆しているのです。
従って、全体の一部であることを自覚するためには、静止点である折り返し点で一瞬止まらなければなりません。
『今、ここ』とは、運動の折り返し点であり、静止の暗闇と沈黙の世界への窓である静止点なのです。