|
Chapter 535 知識・見識・胆識 これからやって来る新しい時代は、金力がモノを言う社会から、徳力がモノを言う社会になります。 金力の背景に拝金主義思想と拝神主義思想(宗教)、つまり極致の二元論的考え方があるのに対し、徳力の背景にあるのは三元論的考え方であります。 二元論的考え方の本質は自他の区分け、つまり部分思想であります。 一元論的考え方−一元論とは考え方ではなく在り方ですが−の本質は自他の区分けのない、つまり一体思想−一体感−であります。 三元論的考え方の本質は自他が合一する全体思想であります。 一体思想と全体思想は円の始点と終点の違いと考えたらいいわけで、始点は二元論的考え方という円周の経験をしていないが、終点は二元論的考え方である円周をすべて経験した上での始点への回帰なのです。 一元論的考え方には二元論的考え方の知識がないが、三元論的考え方は二元論的考え方のすべてを理解した上で二元論を超越したものの見方であるのです。 知識・見識・胆識という言葉があります。 知識レベルが二元論的考え方であるのに対し、胆識レベルが三元論的考え方であると言っていいでしょう。 胆識レベルに達することは、知識レベルから見識レベルを経由しないとできないわけでして、見識レベルとは、まさに三次元空間世界と四次元時空間世界の橋渡し役である、『今、ここ』という窓でありドアーに外ならないのです。 知識から胆識に至るには知識を捨てる覚悟が要る、それが、『今、ここ』に立つという覚悟をすることであり、それが見識であります。 よくする逸話を紹介します。 禅の師匠と弟子が旅をしていたら、川に出喰わした。 幸い、川には一隻の船があったので、ふたりは船を漕いで川を渡ることができた。 師匠は何ごともなかったように旅を続けようとした。 弟子は師匠に言った。 “また川に出喰わすかも知れません。この船を持って行きましょう” 師匠は弟子に言った。 “船は川を渡るためだけにある。そこに置いておきなさい” 弟子は師匠の言っている真理がわからず、船を担いで旅を続けた。 砂漠の中を続ける旅で、弟子は船の重さに苦しむが、再び川に出喰わした時のことを考えたら、船を捨てることができなかった。 そして弟子は砂漠の中で倒れた。 師匠は弟子に言った。 “だから言っただろう。船は川を渡るためだけにある” この逸話は何を示唆しているでしょうか。 知識は胆識になってはじめて役に立つわけで、胆識になるためには知識を捨てるという見識が要るのです。 しかしながら、わたしたちは二元論的考え方の何たるかもわかっていない状態つまり知識すらない。 先ずは知識から始めるしかないのですが、知識に溺れることなく、見識を通じて胆識までの道があることだけは認識しておくべきです。 徳力は胆識レベルになってはじめて得られる境地と言っていいでしょう。 |