Chapter 543 広義の自分・狭義の自分

朝目が醒めた瞬間(とき)から、夜眠りに就く瞬間(とき)までの状態を、意識が醒めた現実だと、わたしたちは勘違いしています。
五感や「想い」が醒めた状態を以って、意識が醒めているかの如く思ってきたわたしたちでありますが、眠りのふたつの状態である熟睡(Non-REM睡眠)と夢(REM睡眠)における五感や「想い」の状態を分析してみますと、昼間目が醒めている状態と殆ど同じように機能していることがわかります。
そうしますと、眠っているか、目が醒めているかによって、意識が醒めているかどうかの判断にはならないことになります。
五感以外の肉体である心臓その他の内臓は、眠っている状態でも一生働き続けているのが基本であって、五感が肉体という全体の一部であると主張する所以であります。
人間の心身を肉体と意識とに分けて、肉体の一部が五感であり、意識の一部が「想い」であるとした所以でもあります。
人間の心身を肉体と意識と分けたのは、わたしたちが存在し得ている世界が、150億年前にビッグバンで誕生した運動の光と音(喧騒)の宇宙であるからで、ビッグバン直後に誕生した四つの力(重力・強い力・弱い力・電気の力)によってすべてが動き出したのですから、当然それ以前の宇宙は、静止の暗闇と沈黙の宇宙であるわけで、そこでは肉体だけがあって意識すら存在しないのであります。
意識とは動くことによって生じる非物質(Non-Matter)作用であるのです。
つまり自他の区分けが生じる原因は動くことにあり、その結果意識が生じた。
実在の本質は肉体であって意識ではないということであります。
肉体が主であって、意識が副である。
そして、肉体にも意識にも主と副があって、肉体の主が肉体であり、副が五感であります。
更に、主である肉体に対して副である意識にも副があって、それが「想い」なのです。
わたしたちのすべての根源が肉体にあり、肉体が運動する世界にいることで、意識や五感や「想い」が派生した結果、自他の区分けから自分というものが生まれたのであります。
従って、自分というものには、最も広義の自分から最も狭義の自分まであるわけです。
普段わたしたちが自分だと思っているのは、五感が一番強く機能して、「想い」がその次に強く機能している、目が醒めている最も狭義の自分の状態です。
夢を観ている状態は、五感よりも「想い」の方が強く機能している、目が醒めている状態よりは広義な自分の状態です。
つまり意識の区分けでは、顕在意識(Consciousness)である海面上の島が最も小さい状態が目が醒めた状態であり、潜在意識(Sub-consciousness)である海面下の島が海面上に現れたのが夢を観ている状態であり、そこには集合意識(Super-consciousness)と隔てる海は存在しないのであります。
目が醒めている状態は、自他の区分けつまり自己の意識が最も強い状態であるわけで、五感で以って自他の区分けをしているからであります。
夢の中での自他の区分けは、五感よりも「想い」で為されている。
どちらにしても、五感と「想い」で以って生きていると思い込んでいる自分があるのが、寝ても醒めてものわたしたちであるのです。
寝ても醒めても四六時中つまり一生を、五感や「想い」で生きているわたしたちである限り、五感や「想い」で感じることはすべて過去情報であるわけですから、『今、ここ』すなわち現実に生きていないことになります。
目が醒めている、つまり五感のひとつである視覚が機能しているだけで、生きていると思い込み、視覚が受像する映像を見ることによって、その映像を現実だと勘違いしているのが似非現実主義者であり、唯物主義者の正体であるのです。
夢の中の出来事を映像と捉えているにも拘らず、その中に自分が登場しているという甚だしい勘違いをしているのが似非現実主義者であるのです。
似非現実主義者は、生まれつき目の見えない人に、夢はどんなものであるかを訊ねてみるとよい。
夢とは見るものではなく、聞くものであり、匂うものであり、味わうものであり、触るものである、従って夢とは見るだけのものではないということを思い知る筈であります。
見えるものだけを以って現実だと考える唯物主義者。
目が醒めている所謂現実を真の現実だと考える似非現実主義者。
彼らが自己に対する執着の最も強い人種の所以であり、それを以ってこの世的成功と勘違いする拝金社会になるのです。
最も狭義の自分から、最も広義の自分に早く気づくことが、現代拝金社会で最も望まれることであります。