Chapter 603 無法社会が目前に

拝金主義が高じた結果、商業主義という名の下に企業という組織が暴力団と同じ反社会勢力の一角を占めている。
テレビ、新聞、雑誌といったマスコミがその筆頭でありますが、更にゲームソフトメーカーが世間にばら撒く低劣なゲームは子供たちを冷酷な殺人マシーンに仕立て上げている罪は死刑に値する重罪であります。
現代社会の子供たちは、親と学校の無責任さと企業の貪欲さに翻弄されている被害者であるのですが、その反動で恐るべき加害者に変身しはじめている。
まだ成熟していない彼らが、このまま成熟期に達する5年から10年後の日本を考えますと背筋が寒くなります。
嘗てのニューヨークでは、地下鉄という公衆の面前で平気で殺人事件が起こっていた。同じことが日本で近い将来、これらの子供たちが成長した頃に再現されるように思えてなりません。
日本は幸い戦争のない時期を半世紀以上享受してきましたが、その大きなツケがいよいよ回って来たようです。
問題点の本質をひとつ一つ根気よく潰していく決意が、わたしたちに求められているのです。
以下のことも、根気よく潰していかなければならない問題の一つであります。

Chapter 321  河原乞食の馬鹿試合

「本物」の時代が嘱望されて久しくなります。
1980年代に起きたバブル経済への反省の意味を込めての想いが発した言葉であります。
しかし、拝金主義化がますます激しくなっているのが、日本の現実であります。
拝金主義とは偶像崇拝の一つで一種の宗教的行為であることを見逃してはなりません。
人間社会にしかない宗教的行為の嵌り易い罠とは、自分以外のものを信じようとする行為つまり偶像崇拝であります。
自分以外のものを信じようとする背景には、自分を信じていないという心理が働いているのです。
つまり、「偽物」志向であるわけです。
自分が「本物」でないと思うが故に、他のものに「本物」を求めるのが偶像崇拝であり、宗教の最も危険な一面であるのです。
教祖が偶像として祀りあげられるのが、我が国に氾濫する新興宗教の実態であるわけです。
旧来の宗教は、教祖が既に死んでこの世にいないわけですから、祀りあげようがない。
それではと、目に見えない神や仏を捏造して拝ませるのですが、所詮目に見えないものですから、冷めた想いにならざるを得ない結果、冠婚葬祭用の小道具になり下がるわけです。
新興宗教は、教祖という生き神様が目の前にいるものですから、熱い想いが滾り熱病に冒されるわけで、せっかくの日曜日まで子供を巻き込んでの汚染活動に明け暮れることになります。
結局の処、偶像崇拝に外ならないわけで、今や大スターとなった河原乞食を追いかけまわす、阿呆を通り越した狂気の沙汰のストーカーファンとまったく同質の行為であるのです。
偶像崇拝を享受している大スター連中も、偶像崇拝とは詰まるところ拝金即ちお金扱いされていることを見抜けない阿呆な河原乞食−特に最近は河原乞食の典型である他人を貶めて笑いを誘う低劣な漫才師が大スターになる始末−ですから、「本物」志向どころか、「偽物」横行の世相になっておるのであります。
「世相を・・・」などと以前大上段に構えたテレビ番組のホストをしていたオッサンも、河原乞食と一緒になって金塗れになっておる世相であります。
「本物」か「偽物」かを見抜く目を持つためには、先ず自分が「本物」にならなければなりません。
自分が「本物」でないから、誰が「本物」で、誰が「偽物」であるかを見抜けないのであり、日本人の政治に対する無知さ加減の原因であり、投票率が50%にも達しない、世界から呆れた目で見られる理由であるのです。
他人に責任を求める前に、先ず自分に責任があるかどうかを求めるのが、「本物」の証であります。
河原乞食とは、自分の「偽物」加減を映し出す鏡のことを指す意味から生れた言葉であり、低劣な芸人を卑下する前に、低劣な芸か高尚な芸かを見抜く目のない自分を卑下する言葉でもあることを忘れてはなりません。
河原乞食にうつつを抜かす自分こそ河原乞食であるのです。
テレビという河川敷舞台も、デジタル放送などとますます巧妙さを増しておりますが、それはまさしく河川敷舞台と河川敷観客席とを一体化させた化け物であるのです。
早く河原から脱け出すことです。