Chapter 609 心の埃・心の垢

他の生き物は常に、『今、ここ』を生きているのに、何故わたしたちは過去や未来に「想い」を馳せてしか生きることができないのでしょうか。
純真無垢な子供たちは、『今、ここ』を生きているように見えます。
いつかどこかで変わってしまった。
そのヒントは記憶のはじまりにある。
記憶がはじまった瞬間(とき)こそ、エデンの園の禁断の実を食べた瞬間(とき)であり、エデンの園を追放された瞬間(とき)であり、エデンの東のノドという町で生活をはじめた瞬間(とき)であります。
わたしたちの記憶はすべてノドの町からはじまった記憶であって、エデンの園の記憶は無いのです。
肉体的にはエデンの園で生活していた時期があったわけですから、その時期の記憶はあった筈ですが、エデンの園で生活するということは善悪の判断をしない生活ですから、記憶の蓄積が為されないのです。
記憶は他の生き物にもありますが、善悪の判断はありません。
善悪の判断とは知性を意味しており、知性とは記憶の蓄積に外ならない。
過去や未来に「想い」を馳せるのは、記憶の蓄積作業に外ならないのです。
『今、ここ』を生きても記憶はあるが、記憶の蓄積作業は為されないのです。
学習能力はあっても、執着はないのです。
蓄積作業つまり溜め込むことがすべての原因であります。
他の生き物も、純真無垢な子供も、記憶はあるのですが、記憶を溜め込むことをしないから、学習能力はあっても執着がないのです。
純真無垢な子供の頃を思い出せないのは、単一の記憶だけであって、溜め込まれた記憶ではないからです。
溜め込まれた記憶とは溜め込まれた埃と言った方がわかりやすいでしょう。
記憶そのものは埃ではないのですが、溜め込まれると埃になるのです。
埃や垢とは溜め込まれたものに外ならない。
無垢な子供には埃や垢が無いのです。
エデンの園とは埃や垢の無い世界、溜め込むことの無い世界のことを言うのです。
わたしたちはノドという町で生活をはじめてから、埃や垢を溜め込むことばかりをしてきた。
記憶が残っているのがノドの町のことだけで、エデンの園の記憶が残っていないのは、埃や垢が溜まっているかいないかの違いです。
過去や未来に「想い」を馳せるのは、記憶を溜め込む作業であり、埃や垢を溜め込む作業に外なりません。
『今、ここ』を生きるとは、単一の記憶はあっても記憶を溜め込む作業はしないことに外ならないのであり、埃や垢を溜め込むことをしないことであります。
埃や垢を溜め込まないようにすれば、『今、ここ』を生きることができると言ってもよい。
埃や垢を溜め込まないようにする、記憶を溜め込まないようにするには、どうしたらいいのでしょうか。
わたしたちは考えるということと、「想う」ということを同じだと思って(考えて)います。
考えるということは思うことであり、「想う」ことではないのです。
思うとはその字の通り、田畑の心であり、田畑とは連なるという意味ですから、思うとは連なる心、複数の心ということになります。
「想う」という字は、相手の心であり、相通ずる心という意味ですから、一つの心ということであり、複数の心である思いとは違います。
連想と言う言葉があっても、連思という言葉がないことが、思いと「想い」の違いをよく表わしています。
埃や垢が溜まるということは、思うこと、連想することであります。
瞑想や座禅が精神修養に好いと言われています。
瞑想は"Meditation"と英語では言うのですが、この言葉は「集中」というのが本来の意味です。
「集中」には他に"Concentration"や"Contemplation"といった言葉がありますが、これらの言葉は、「想い」すなわち単一の心の状態のことを意味しているのに対して、"Thought"は複数の心、連なる心つまり連想を意味しているのです。
"Meditation"
"Concentration"
"Contemplation"
は集中の度合の違いであり、単一の心には変わりありません。
過去や未来に、「想い」を馳せるとは、「思い」を馳せることであり、考える(thinkする)ことであり、連想することであることを自覚することです。
過去を思い悩む、未来を思い煩うとは、まさに連想に外ならないのであり、埃や垢を溜め込むことになるのです。
連想とは埃や垢を溜め込むことであることを肝に銘じておくことが肝要であります。
お金やモノを溜め込むことも、埃や垢を溜め込むことに外ならないことを加えて肝に銘じておくべきでしょう。