Chapter 610 記憶とは時間でなく空間である

記憶の正体は、過去若しくは未来に対する思い・考えつまり連想であり、連想の結果溜め込まれる心の埃や垢のことであります。
少しでも油断をすると心の埃や垢は溜り込み、記憶の蓄積作業をしてしまう結果、『今、ここ』を生きることが困難になり、ますます過去や未来に思いを馳せる悪循環に陥ることになるのです。
わたしたちの記憶がはじまったのは、エデンの園にある善悪の判断の実を食べたときからですが、それは母親から善悪の判断を躾られたときに外なりません。
以来今日まで記憶を溜め込み続けてきたわけです。
大脳に溜め込まれた記憶。
小脳に溜め込まれた記憶。
身体の各器官に溜め込まれた記憶。
これらの記憶が心の埃や垢となって、べったりとくっついているのです。
埃や垢を取り除く要領は、表面から一枚一枚取り除くしか方法はありません。
表面の埃や垢は新しく付着した埃や垢であって、子供の頃の埃や垢を先に取り除くことはできません。
新しい記憶ほど鮮明つまり記憶程度が強いのに対し、古い記憶ほど陳腐化していて記憶程度が弱い。
従って、表面の埃や垢からつまり新しい記憶から取り除くことをすれば、溜め込んだ記憶の多くを取り除く結果になるわけです。
最も新しい記憶とは、ほんの先程まで、『今、ここ』であったのが過去情報になった出来事です。
わたしたちは、外界(他者)という三次元空間軸に沿って流れる時間軸の上に立っています。
『今、ここ』とは時間軸の『今』であり、空間軸の『ここ』のことです。
わたしたちは、『今』の上に立っているのであって、『ここ』の上に立っているのではありません。
従って、『今、ここ』を同時に確定することはできません。
自分の依って立っているところは常に『今』ですが、生れてから死ぬまで『今』の上に立っている時間軸は流れ(運動し)続けているので、『ここ』という位置は確定できません。
ハイゼンベルグの不確定性原理が厳然と働いているわけです。
アインシュタインの相対性理論が主張する時空間の考え方、つまり三次元空間に四次元要因の時間が加わるのであれば、『今』と『ここ』を同時確定できることになり、『今、ここ』を生きることは左程困難ではないということになります。
平たく考えれば、静止していたら位置の確定はできるが、静止していて運動していないのだから運動量も速度も従って時間も確定できないのは当たり前であり、運動していたら運動量も速度も従って時間も確定できるが、運動していて静止していないのだから静止した位置を確定できないのはこれまた当たり前であります。
空間軸の位置を確定すれば、運動量つまり速度つまり時間軸の位置を確定することはできないし、運動量つまり速度つまり時間軸の位置を確定すれば、空間軸の位置を確定することはできないのが、わたしたちの世界では常識です。
ハイゼンベルグの不確定性原理を否定したアインシュタインの方に分が悪そうです。
わたしたちは時間軸の上の『今』に立って、空間軸に沿って運動している(流れている)から、空間軸上にある『ここ』は決して確定できません。
先程まで、『今、ここ』だったのが過去情報になっていくのは、時間軸の『今』が変化するのではなく、空間軸の『ここ』が変化しているのです。
過去の記憶を辿ってみれば一目瞭然であります。
時間の変化など辿れるわけがなくて、景色つまり空間の変化を辿るだけのことです。
記憶とは時間の変化ではなくて、時間軸に沿った空間の変化であることに気づかなければなりません。
昨日の記憶、三日前の記憶、三ヶ月前の記憶、三年前の記憶、三十年前の記憶。
これらはみんな空間の変遷に外ならないのです。
つまりわたしたちは、時間軸の『今』の上に立っているのであって、空間軸の『ここ』の上に立っているわけではない所以であります。
過去や未来(の空間)に思いを馳せることができる所以でもあります。
死ぬまでハイゼンベルグを認めなかったアインシュタインはかなり分が悪そうです。
最も新しい記憶とは、ほんの先程まで、『今、ここ』であったのが過去情報になった出来事だと申しましたが、過去情報とは空間情報の変遷であります。
『今、ここ』でご飯を食べていたら、ご飯を食べる前に食べていた玉子焼きが最も新しい記憶であるわけですから、玉子焼きの光景を浮かべることによって記憶の消去をする。
一日あった出来事を消去していけば、一番表面の埃や垢つまり新しい記憶を取り除くことができるのです。
日々同じ要領を続けていけば、表面の埃や垢は溜まらなくなり、陳腐化した古い埃や垢は勝手に剥がれていき、その瞬間(とき)、わたしたちは、『今、ここ』の一瞥の連続を享受することができるようになるのです。